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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

見田宗介「社会学入門」

社会学の面白さとは?

社会学というのは、学問のなかの「残滓」のようなところがある。

つまり、残りカス。日常生活でおこる疑問や問いのなかで、これは「◯◯学」の領分である、と規定できないようなものは、大抵「社会学」として扱われることになる。

 

たしかに社会学が答える問いには、日常的な疑問に根ざしているものが多い。

「普通、普通というけど、普通ってなに?」

「世間の目って、どういうこと?」

「なぜ友達からきたメールを返さないといけないの?」

「どうしてブランドのマークが入るだけで、みんなありがたがるの?」

「女らしさってなに?」

などなど。

 

身近で、俗っぽく、素朴な問い。

だからこそ、奥が深く、面白い。

 

その社会学の面白さを、生のままで伝えてくれるのが、本書である。

 

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「伝わる」とはなにか?

伝わるとはなにか

<要約>

このブログのメインコンセプト「伝わる」を解説します。

その要諦は、「語る内容の魅力性によって受け手の興味を誘発させること」。

説得の語法ではなく、「楽しいからおいでよ」という新しい世界へのお誘いの語法です。

「伝わる」とはなにか?

みなさん、こんにちは。

ここではこのブログがなにを語り、なにを目指しているかを簡単に説明します。

このブログのコンセプトは「伝わるとはなにか、を考える」ことです。

院生時代から収集してきた人文・社会科学的な知見と、現役コピーライターとしての現場経験から、「伝わる」ということを考えていきたいと思います。

なぜ「伝える」ではなく「伝わる」なのか?

それは日本中、とくにビジネス界にはびこる「説得の語法」から逃れるためです。

ロジカルでデータオリエンテッドなことば、一分の隙もなく整理されたことば。

こうした論理的説得は大切ですが、それだけでは、人はけっして、動かない。

どれだけ徹底的に追い詰めて論駁したところで、いやいや服従することはあっても、本心が動くことはない。

こういうのはもう止めたほうがいいと思う。

魅力的なことを、魅力的に語ること。

そうすることで受け手に自発的な興味や好奇心を促し、賛同者を集めていく。

大切なのは、そのことばが受け手に聴き届けられ、そこから何かが始まること。

それこそが受け手を主軸に捉えた「伝わる」ことばなのです。

そして、

きたる本格的な「ネット社会」の理想的な姿はそういうものじゃないかと、私は思います。

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生きたことばとはなにか

生きたことばとはなにか

生きた学問は学びを開始させる。

大学院のころ、私の教授がこんなことを言っていた。

学問には生きた学問と死んだ学問がある。それは教壇に立つとすぐわかる。生きた学問は、説明を始めた瞬間から学生の目が輝き出し、我を忘れたように興味の眼差しを向ける。他方、死んだ学問は、説明を始めた瞬間から、ある者は私語をはじめ、ある者はケータイを取り出し、ある者は眠り始める。

こういう尺度はすごく大切なことだと私は思う。

教授の「生きた学問」に惹かれて、人生を変えられたのだから当然かもしれないが…。

ふつう学問をやる上で「門外漢の興味を誘発できるか」という尺度でその学説の「良し悪し」を決めるということはしない。

むしろ「素人には分からないこと・素人を締め出すこと」を高レベルの学問だと捉える人もなかにはいるくらいだ。

たしかに専門性が高くなるほど素人にはとっつきにくくなるのは致し方ない。

それは哲学でも物理学でも数学でも同じだ。

けれど、

専門性という壁を乗り越えて、それでもなお、核となる「問い」の不思議さ・面白さを説明できない学説・学問に未来はない、と私は考えている。

もちろん「門外漢でもわかるくらい簡単な話をする」というわけではもちろんない。

「素人でも簡単にわかる」ものを素人は欲望しない。

「分からない」けれど「私にとって大切なこと」だと感じる。

このとき初めて、学びが開始する。

分からないけれど、私にとって重要な問題であることは分かる」という直観が、「面白さ・不思議さ」の感覚を生み、新しい知見へと門外漢を誘うのである。

実は、ことばも同じじゃないか、と私は思っている。

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貫成人「哲学マップ」


哲学マップ (ちくま新書)哲学マップ (ちくま新書)
(2004/07/06)
貫成人

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・全体をマップ化することの効能

私が社会思想系の大学院に入ったとき、一番驚いたことは、「先輩たちはそれほど本を読んでいない」ということだった。

もちろん私に比べればみんな博識で古今東西のさまざまな本を読んでいる。

しかし私は、博士(およびその卵)というのはその分野の本を全部読んでいるものだと思っていた。

デカルトからカント、ヘーゲルマルクスハイデガーメルロ=ポンティレヴィ=ストロースフロイトドゥルーズフーコーハーバーマス。ルソー、ホッブズウェーバーデュルケームジンメルパーソンズ、ミード、ブルデュールーマン、ギデンズ、などなど。

しかし考えてもみれば、そんなわけはない。

全部読破するにはあまりに膨大だ。

今挙げた人物はほんの氷山の一角に過ぎないし、彼ら一人一人に各3、4くらいの必読書がある。

人生がいくらあってもすべても網羅するのは至難の業だろう。

彼ら(先輩たち)は、別にすべての本を読んでいるわけではない。

けれど、すべての本の学術史上の位置関係は把握していた。

それが全体をマップ化するということだ。

情報過多と呼ばれる現代に必要なのは、

情報をやみくもに吸収することではなく、

それらを俯瞰するマップを拡大し、精緻化していく知性ではなかろうか。

では、それはいかにして可能か?

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東浩紀「弱いつながり」


弱いつながり 検索ワードを探す旅弱いつながり 検索ワードを探す旅
(2014/07/24)
東 浩紀

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東浩紀と偶然性

私は東浩紀という人物の本がわりあい好きである。

「存在論的・郵便論的」には圧倒されたし、「動物化するポストモダン」は今たまに読んだりするし、「情報環境論集」は修士論文執筆のときにかなり参考にした。

一番のおすすめは、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか」という初期の論文で、長編小説を読んだ後のようなくらくらする読後感だった。

それらに劣らず本書も軽快な文章だった。

やや一般向きな話だが、テーマとしては現代哲学のど真ん中をいくテーマでもある。

「旅」という身近な素材を、情報社会論や現代哲学でうまく料理している。

しかし一方で、

私は、東はもう少し本書の発刊を遅らせてもよかったのではないかと思っている。

後に語るように本書は、とっつきやすいテーマ設定のわりに学術的に重要な問題系を含んでいる。

すなわち「偶然性」をめぐる問題系である。

しかしこの「偶然性」の問題は、本書で頻繁に言及されるものの、考察そのものは少し浅いように思える。

冒頭で挙げた本たちような、問題をぐぐっと深めていくような東らしさが弱いように感じられたのだ。

では、それはなぜか?

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真木田雄介「偶然性の現代社会学」


偶然性の現代社会学: 閉塞するリスク社会偶然性の現代社会学: 閉塞するリスク社会
(2014/03/23)
真木田雄介

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・恐縮ながら…

 電子書籍で本を書いた。

 本を読んだり、日常を生きていて考えたことを一つの文章にしてみた。それゆえこれまでのブログで紹介したようなトピック(「閉塞感」や「偶然性」といったテーマ)と重複する部分がかなりある。そのような知識の断片を集めて、自分の関心に合わせて再配列したのが本書である。

 この本でメインに挑みたかった問題は、現代の閉塞感とよばれる感覚である。90年代以降、日本のみならず先進諸国でいわゆる「閉塞感」という言葉が、社会を表現する語法として使われ始めた。

 たとえばオウム真理教の事件のときにも頻繁にこの言葉が使われていたし、00年代には「希望」が社会分析のキーワードとして使用された(山田昌弘古市憲寿など)が、その裏側には対義語として「閉塞感」という言葉が使用されていた。

 では、この「感覚」は、一体何であるのか。そしてどういうメカニズムで、どういう要因で発生したのか。

 本書を貫く問いは、おおよそこのようなものである。

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マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
(1989/01/17)
マックス ヴェーバー

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ウェーバーの過小評価

 結構昔のことだけれど、京都市図書館にウェーバーの『プロ倫』が置いてなくて愕然としたことがある。

 なんとなく読み返してみたくなって、ふらっと図書館に入った。しかし、書架にも書庫にも置いてなかった。

 「おいおい、『プロ倫』置いてないってどういうことだよ。しょーもないハウツー本は置いてるくせに、なんで社会科学の最重要文献が置いてないんだよ」と憤った。

 けれど向こう側にもいろいろ都合があるんだろうと思って、おとなしくアマゾンで買った。

 この論文は今から100年以上前に書かれた論文だが、いまだ社会学ではもちろん、学術以外の領域でも言及されることが多い。だがしかし、それにも関わらず、あまりウェーバーの含意を汲み取った言及がなされていない。

 正直、「近代資本主義とプロテスタンティズムのあいだに関連性があった」程度の使われ方である。たしかに間違ってはいない。そういう問題を扱っているし、結論もそのとおりである。

 しかし、それだけを取り出して『プロ倫』はこういうものです、と言ってしまうとウェーバーが可哀想である。彼にとって『プロ倫』とは、我々が生きるこの「近代社会」の本質的起源そのものを問うための一部に過ぎない。すなわち、資本主義、合理性、個人主義、そういった近代社会を動かす核となる思想が一体なぜ、どこから生まれてきのかウェーバーはそのことを問うための予備作業として『プロ倫』を書いたのである。

 そういう含意を汲みとりつつ『プロ倫』を読むと、もっと面白くなる。そしてそのことを理解してもらえば、きっと京都市図書館にもこの本を置いてもらえるだろう。

 

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