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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

生涯ランキングー評論編ー

ひとりで過ごす時間が多い人は、ひとり遊びがだんだんうまくなる。その昔、ムーアの法則といって、「半導体の進化は18ヶ月で2倍になる」というよく分かんない法則があったけれど、あれと同じで、ひとりで過ごす時間が長くなるほど、指数関数的にひとり遊びがうまくなっていく。

ちなみに今日やったのは、本や映画やドラマなどのコンテンツの生涯ランキング作成。やったことがある人なら分かるけれど、これが案外おもしろい。どんな映画見たっけ、と記憶をほじくり出していくと、忘れていたような過去のさまざまな思い出が蘇ってくる。

それに実はこれ、結構難しい。「生涯ランキング」というだけでは、定義があいまいで、まずは選定基準を定めるところから始めなければならない。「結構好きなんだけど、あまり評価できない」とか「めちゃめちゃクオリティが高くて勉強になったけど、自分の人生に与えたインパクトは低い」とか、コンテンツの需要の仕方って結構複雑なのだ。観たタイミングとか心理状態にも左右される。

だから「生涯ランキング」の選定基準を次のように定めた。自分がそれを観たときのインパクト(印象の強度)が強かったもの。そのため、このランキングは、「クオリティの高さ」とは関係ない。あまりに偉大な作品は、「お勉強」として受容してしまうので、印象としてはどうしても薄くなる。

そしてこれが大事だが、ルールとして、「自分の気持ちに正直になること」を定めた。これをやらないと、「いわゆる名作」とか「これを選んでおくと通っぽい」というようなよこしまな気持ちが出てしまう。

 

前置きはこれくらいにして、とにかく発表しよう。

 

生涯ランキングベスト10 ー評論(ノンフィクション書籍)編ー

第10位 吉本隆明『転向論』(1990)

この人を読もうと思ったきっかけは内田樹からの芋づる読書だった。なのである程度予備知識があったので、それも左右しているのかもしれない。

ご存知の方も多いと思うが、吉本はもともと「軍国少年」だった。そんな彼が敗戦後、そのことについてどう折り合いをつけるか。自分の信念に従って皇国主義を貫くか、自戒・反省し、平和主義を標榜するか、それとも軍国少年であった過去を隠匿するか。道はたくさんあったが、彼はそのどれも選ばなかった。「軍国少年」であった過去を否定も反省もせず、それを背負いながら平和主義の有り様を探し求めた。

いちいち指摘することもないけれど、『転向論』は、そんなことには一切触れられていないものの、彼の実存的問題が全面に現れた論考である。こういう実存的問題に真摯に取り組み、苦悶する論考というのは、なぜだかいつも心打つ。

 

第9位 北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(2005)

元祖2ちゃんねる論考。最初から最後まで、おもしろい。

2ちゃんねるを中心としたネット文化でひろがるナショナリズム的言説のメカニズムを、70年代の日本赤軍にまで遡って解き明かした論考。

なにがおもしろいかといえば、コニュニケーションの形式に着目して社会分析をやってのけた点だ。もちろんその方法論の起源を辿れば二クラスルーマンをはじめ、いろんな論者がコミュニケーションの形式に着目した社会分析をやっているだろうけど、ここまで面白くて、実践的で、価値のある論考はないんじゃないかと思う。

北田さん、こういう論考、もっと書いてくれないかなあ。

 

第8位 東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』(2011)

東浩紀は、どうしても入れたいと思っていたけど、どれを入れるかすごく悩んだ。『動物化するポストモダン』もいいし、『一般意志2.0』もいい。個人的にすごくお世話になった『情報環境論』も捨て難い。

しかし、印象の強さ(読んだ後の瞬間風速的なインパクト)で本書を選んだ。けっこう衝撃的だったと思う。

内容は、読んで字のごとく。インターネットがなぜ「空間」として表象されるか、という問題を、たしかフィリップ・K・ディックを読み解きながら論じていた。すこし記憶が曖昧だから違っているかもしれない。

もうどういう筋で、どういう結論だったかということも忘れてしまっているけれど、おもしろい文章を書く人だなあと感心した記憶はある。一つの問題を手に、いろんな文芸作品を横断しながら、徐々に答えに迫っていく。その論考自体が、ある種ミステリー作品のような展開で進んでいく。

後ろに収録されている対談もおもしろかった。たしか斉藤環との対談だったと思う。じつは東浩紀は、対談がおもしろい。わたしの生涯ベスト対談は、東浩紀大塚英志の『リアルのゆくえ』だけど、本書の対談もかなりおもしろい。この人は、どんな話でも、話の核心を掴むのが本当に上手だ。

 

第7位 マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1989)

海外の学術書は、どうしても「お勉強」として読んでしまうので、どうしても印象が薄い。けれど、これはかなり印象深い。

文章自体は、けっこう簡単(まったくの初学者が読むとそれなりに難しいのかもしれない)し、かなり短い。けれど、そこにウェーバーという人の学問に対する姿勢がじゅうぶんに垣間見える。どういうことろかというと、この人はとことん慎重な人だ。ふつうの人ならある程度、状況証拠が集まった時点で犯人を断定してしまうところを、この人は、仮説こそ立てるものの慎重に証拠をあつめて、反論をつぶしていく。こういう手つきは、ものを考えるうえで見習いたいと思った。

 

第6位 見田宗介『まなざしの地獄』(2008)

見田宗介(または真木悠介)も、けっこう悩みどころである。個人的には『社会学入門』を推したい気持ちもあったし、歴史的名作である『時間の比較社会学』も入れておきたい。でも、結局本書にした。

見田のすごいところは、「全身で学問をするところ」だと思う。何度も引用している言葉だけれど、見田の学問ポリシーは「本当に大切な問題に、真摯に誠実に向き合うこと」。それは見田の論考の行間からも感じ取ることができる。論じ方自体は、けっこう冷静なのだけれど、熱い。ひとつひとつの論考に自己の存在意義が賭けられているかのような熱さである。だからこそ、「おもしろい学問」の第一人者として、これからも存在しつづけるだろうと思う。

 

第5位 中村雄二『共通感覚論』(2000)

そういえばこのラインキングに入っている本を読んだのは、だいたい高校生から大学生のころだ。もっと大人になっても、そこそこ本は読んでいるのだけれど、やっぱりあのころのインパクトには勝てない。なにもかもが新鮮な時代。

本書もそんな時代に読んだ本。わたしが唯一、日本人で「哲学研究者」ではなく「哲学者」だと思う人。自ら思考し、自らの論を組み立てようとする。そういう悪戦苦闘をそのまま書籍にした本である。だから、ほとんど体系だってないし、話の筋も右往左往している。でも、それが面白い。

 

第4位 大澤真幸『<自由>の条件』(2008)

最初の2ページで痺れた。あまりに痺れすぎて、自分の修士論文でまるまる2ページすべて引用した。たしか文体も大澤文体で書いた。

大澤真幸文体を完全コピーした人間ならわかると思うけれど、彼の文章の持ち味は、クライマックスの接続詞の連打にある。ゆっくりと点と点をつないで、伏線を回収しながら、メインの結論部分に差し掛かると、いきなり接続詞連打がはじまる。「ところが、にもかかわらず、だからこそ、◯◯…」。大澤ファンはここでしびれる。3重に接続詞を重ねるとか、ふつうありえない。文章としては悪文と言われてもおかしくない。でもそれでいいのだ。なぜなら、それだからこそ、いや、それこそが、大澤真幸なのである。

話が逸れてしまった。本書も、そんな大澤節が炸裂している。本書の問題を簡単にまとめるとこうなる。現代は、技術的にも法的にも規範的にも、自由の領域が極大化している時代であるが、その一方でどうしようもない不自由感(不能感・閉塞感)を感じてしまうことがある、それは一体なぜか。気になる方は、ぜひ読んでみてください。

 

第3位 大澤真幸『不可能性の時代』(2008)

またまた大澤真幸。好きなんだから仕方ない。前の『<自由>の条件』はかなり大著だったけれど、本書はコンパクトな新書で読みやすい。それでいてかなりハイクオリティ。「現代社会」とは一体なにか、という社会学の基本問題に正面切ってアプローチしている。

 

第2位 内田樹『ためらいの倫理学』(2001)

ここにきて内田樹。この人が出てきたときはかなり衝撃的だった。こんな気持ちの良い文章が書ける人がいるのか、と驚愕した。とてつもなく分かりやすくて明晰。しかも常識とは違う視点を提示してくれて、文章自体もスパイスが効いてておもしろい。

時代的にも2000年代前半というのは、けっこう強権的な物言いが流行った時代だった。ジョージブッシュや安倍首相がいて、ナショナリズムが流行った。それに加えて、グローバル化が声高に叫ばれていた。端的にいえば、「はっきりと物事を決断し、意見を述べる」ことが正しいという空気だった。

そういう時代にすこし辟易としていたこともあったけれど、「ためらうこと」を正当化する論理がけっこう新鮮だったと思う。もちろん彼がオリジナルに生み出したわけではないだろうけど、10代のころはそんな思想には出会ってなかった。

タイトルを忘れてしまったけれど、フェミニストの話ぶりを批判して、その後で自分の批判を反省していた話とか、けっこう好きだった。あとスーダンソンダクの悪口をいっていた話もよかった。

 

第1位 養老孟司バカの壁』(2003)

これはもう、仕方ない。どうしてもこうなる。べつに評論系書籍のなかで『バカの壁』が一番優れているとも思わないけれど、インパクトを与えたという意味では、ダントツの一番である。

なにせそのころはまったく本を読まない高校生だった。世の中にはこんな見方があるのかと、本当に目からウロコが落ちた。

たぶんそのころはちょうど本書のテーマのようなことに悩んでいた。いや、悩んでいたというのは少し違う。言語化すらできない、もやもやした違和感だった。友達や親とのコニュニケーションのズレを感じながら、どうしてこの人たちは長々と会話するくせに、自分の話をするだけで相手と「わかり合う」気がないのだろう、と思った。自分のものの見方が絶対だと思っている大人にもイライラした。ちょうどそのとき9・11が起こって、それが自分の周りだけでなく、人類の普遍的な問題なんだとわかった。

そんなときに、自分のもやもやした違和感に「言葉」を与えてくれた本書だった。こんな文章がかけるようになりたいと思った。たぶんこの本に出会ってなかったら、わたしの人生は全然違っていたと思う。

だから、この本が一位なのは、仕方ない。

 

まとめるとけっこう長かった。最後にもう一度振り返り。

第10位 吉本隆明『転向論』(1990)

第9位 北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』(2005)

第8位 東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』(2011)

第7位 マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1989)

第6位 見田宗介『まなざしの地獄』(2008)

第5位 中村雄二『共通感覚論』(2000)

第4位 大澤真幸『<自由>の条件』(2008)

第3位 大澤真幸『不可能性の時代』(2008)

第2位 内田樹『ためらいの倫理学』(2001)

第1位 養老孟司バカの壁』(2003)

 

このランキングが変動するときが来るのかしら。

村田沙耶香『コンビニ人間』

今年の下半期は、なにかのコンテンツをじっくり見る時間が一切なかった。映画や漫画すら読む時間がなかったので、ましてや小説なんて一行も読んでいなかった。電通の事件が可愛く思えるほどに忙しかった。だから「コンビニ人間」が流行っていることも知らなかった。けれど、ようやく出張の新幹線に乗るまえに入手して、読めた。

ああ、こういう感じ、好きだなと思う。

目の前の出来事をどこか他人事のように突き放して世界を眺める感覚。ただ冷めた人、といえばあまりにも単純なんだけれど、世の中にうまくはまることができない人。「世の中にうまくはまることができない人」というよくある定型にすら、うまくはまれない人。だから呆然と立ち尽くすことしかできずに、ただ眺めることしかできない。

昔、大学の図書館で絲山秋子の『イッツオンリートーク』を読んで似たような感覚になった。女性版のハードボイルド風私小説。カラカラに乾いた世界をただ呆然と眺める女の話。セックスして、不倫して、車でドライブして。まあいろんなことを体験して、いろんな事や人が彼女を通過していく。それを淡々とただぼんやりと眺めるように描写していく。

そのころ、たしか大学4年生で、就職活動をするつもりもなくただ毎日を悶々と過ごしていた。そういう時期の気分にはぴったりくる小説だった。なんでこういう「世界の眺め方」に心を打たれたのかはわからないけれど、社会にうまく適合できない違和感をいだくような人にとっては、結構新鮮な「世界の眺め方」だったと思う。ああ、こういう風に世の中を眺めればいいのか。なんだか関心したような気分になった。

『コンビニ人間』は、『イッツオンリートーク』よりもさらに尖っている。「世界の眺め方」の方法は同じだけれど、さらに強く、深い。ややクレイジーだ。けれど、別に主人公の行いそのものがクレイジーだというわけではない。小学生のころ、死んでしまった小鳥をお墓に埋めてあげようという母の言葉に反して「焼き鳥にして食べよう」と提案する、というシーンがある。たしかにクレイジーといえばクレイジーなんだけど、ありきたりなクレイジーさである。「死んだ小鳥はかわいそう」という「普通」の感覚がわからないただの少女のお話。小説世界では、よくあるといえばよくある。

ではなにがクレイジーかというと、主人公の「世界の眺め方」だ。それは端的に彼女が話す言葉に現れる。たとえば、主人公は清く正しいコンビニ店員であり、コンビニ店員としての秩序や振る舞いを体現した人間であるが、その彼女が新人のアルバイトに対して一声かける。

 

「あの……修復されますよ?」

「え?」

よく聞こえなかったのか白羽さんが聞き返す。

「いえ、何でもないです。着替えたら、急いで朝礼しましょう!」

コンビニは強制的に正常化される場所だから、あなたなんて、すぐに修復されてしますよ。

 

 

修復。こういうパンチのある言葉はそうそう出るものではない。意味合いとしては、洗脳とか規律化とか教育とかのワードが近いのだろうけど。ここで「修復」という言葉が出てくる36歳の女性コンビニアルバイト店員は、やはりクレイジーだと思う。

 

この小説について語るとき、彼女が「コンビニ」というシステムに全的に傾倒していることのクレイジーさが取り上げられることがある。タイトルもまさにコンビニ人間だ。「コンビニ」という誰もが普通は全的に傾倒しないようなものに傾倒することによって、「普通」というものの有様を描き出している、というわけだ。

けれど、わたしは少し違うと思う。

彼女は「コンビニ」に傾倒してはいない。もし「コンビニ」に全的に傾倒しているならば、「世界の眺め方」もコンビニ的になるはずである。グローバルビジネスパーソンに傾倒している人は、世界を「グローバルビジネスパーソン的」にしか眺めることができない。おそらくたこ焼き屋にいっても、ディズニーランドにいっても、経営者のビジネス的アプローチを学ぶのだろう。それはコンビニ人間とて同じはずである。

でも、彼女の「世界の眺め方」は、まるでコンビニ的ではない。もっともっと冷めた別の見方をしている。コンビニ的世界では、「白羽さんが『修復される』」とは言わない。たぶん「教育される」というだろう。そのことを「修復される」と見てる(眺めている)時点で、彼女はおそらく全的にコンビニ人間ではない。

彼女は、どんな◯◯人間でもない。その彼女が、いちおう、仮に、コンビニ人間というシステムを利用しているにすぎない、とわたしは思っている。その「かりそめ」の違和感というが、チグハグさが『コンビニ人間』という小説を面白くしている。だって、会社に全てを捧げる会社人間が、会社人間的な「世界の眺め方」で会社を語っても、たぶん全然面白くないだろう。そこには何の齟齬もなく、なんの軋轢もなく、なんの違和感もない。会社人間が、会社人間的ではない「世界の眺め方」を通して会社を語るからこそ、いわゆるビジネス小説はおもしろくなるし、一つの問題提起として機能する。それと同じ。彼女は、コンビニ人間ではあるが、コンビニ人間的ではない「世界の眺め方」を通してコンビニ人間のありようを語っている。だからこそ、この小説は、面白い。

ドナルド・トランプがこれまでの極右政治家とは違うところ

アメリカ大統領選の山場である「スーパーチューズディ」を制したドナルド・トランプ。連日のニュースでも「トランプ逆転」の見出しが躍っている。

「ああ、大変な世の中になりそうだ」と感じてる方も多いと思う。わたしもそう思う。わたしは、「ドナルドトランプが大統領選で追い上げ」の報道をみたとき、北斗の拳の世紀末を連想した。海は枯れ、大地は裂け、人々が暴力に明け暮れる。

もちろん勝手な妄想だけれど、「世界が大きく変わる」ような破滅的予感は共有してもらえると思う。別にヒラリー・クリントンが良いとは思わないけれど、やっぱりトランプよりは被害が少なそうだ。

 

それにしても興味深いのは、「なぜトランプがこれほど支持を集めるか」という点だと思う。傍若無人で暴言も厭わない。デリカシーやマナーといったものも持ち合わせていなさそうだ。明らかに一国の長にはふさわしくないように見える。

これを単純なグローバルな「右傾化」の一環とみなすのはやや標的を外しているように思える。もちろん彼の思想自体は、典型的な排斥主義的な極右のイデオロギーであり、トランプ支持の要因もそれに負うところが大きい。しかしそれだけではない。あの、「デリカシーのなさ・粗暴さ・品格のなさ」そのものが支持要因のひとつになっているように思える。

フランスの極右政党「国民戦線」のルペンも、日本の安部首相も、(個人的には好きじゃないけど)一応、人としてもマナーや品格は持ち合わせている。「ポリティカルにコレクトな発言」の範疇で、右寄りというだけだ。しかしトランプは違う。メキシコ人はみな強盗犯で、イスラム教徒はテロリストで、女性は国の長になるべきではない、と発言している。これまでの極右政治家とは、少々毛色が違うのだ。

 

私たちは「当たり前」の言葉に耳を向けない。たとえそれが正しくても。

「人を殺してはいけない」「平和であるべきだ」「人を騙したり傷つけないほうがいい」。ごくごく当たり前だけれど、当たり前なぶんだけ、その言葉は強度を失う。誰も耳を傾けなくなる。トランプ旋風の背景には、こうした原理が動いているように思える。

文芸批評についてー現実と向き合うこと

「文芸批評」というジャンルの衰退が叫ばれてから久しい。わたしとしてはあまり興味のないジャンルなので、文芸批評が衰退しようが構わないのだが、まあ少しは気になる。わたしは社会科学系の専門だけれど、やっぱり近しい分野なのでどうしても先行きくらいは見守りたくなる。

 

群像2014年6月号の新人評論賞の選考委員である奥泉光は、選評の冒頭をこのような文章で始めた。

現在文芸誌の公募新人賞で評論部門があるのは、「群像」だけであるが、ここ三年ほど選考委員をやってみて、批評というジャンルの力の衰えをどうしても感じてしまう。文学研究とも社会学とも違う、批評としか呼びようのない形式は、二十世紀一杯で命数が尽きてしまったのか。(p111)

 なかなか手厳しい。だが確かに、優秀賞に当選した2作を読んでみたが、それほど面白くはなかった。

 

どういう点が「面白く」なかったか。

一つ目は、それほど斬新ではなかったこと。ようは目新しさ、驚きがない。結論が予想の範疇。これはいただけない。学術論文でも「新規性」は必須の要件である。これまでにない知識、これまでにない視点を提示しない文章は、厳しくいうと無価値のごみである。

そして二つ目は、現実と接点をもっていないこと。この点に関しては、評価が分かれるかもしれないが、わたしにとっては「現実と接点のない」文章は、つまらない。いま、生きている我々に、なんらかの形で関わりのあるテーマでなければ、いくら明晰な論理だろうともただの知的遊戯にすぎない。

もちろん「実用的であれ」という意味ではない。ビジネス書や自己啓発本がすべてではない。現代社会を生きるうえで、どうしても感じざるを得ない不安や軋轢や疑問や違和感というものがある。こういった感覚に明晰な言葉を与えてもらえるだけで大変に価値のあることだと思う。しかし今回の作品でいえば、そういった現実との関わりがなく、ただの知的遊戯に思えた。

 

「文芸批評の衰退」というものこのあたりにありそうだ。東浩紀も似たような指摘をしていた。文芸批評は「アカデミズム」と「ジャーナリズム」に2極化しているが、その両方とも、ある種の緊張感が失われていると。「アカデミズム」は、社会的(現実的)緊張感がなく、知的遊戯に没頭し、他方「ジャーナリズム」は、内容にオリジナリティがなく凡庸なメッセージしか発信できない。

アカデミックな批評には社会的緊張がなく、逆にジャーナリスティックな批評には知的緊張がない。つまり前者にはメディアの意識がなく、後者にはメッセージの意識がない。言うまでもなくこの二極化自体、批評を多少は貧しくしている。(郵便的不安的β,p13)

わたしが「哲学」ではなく「社会学」に興味をもったのも、こうした背景があるのかもしれない。「社会学」をやる上でもっとも大切なのは、現実を生きる感覚を保持したままアカデミックな視点で物事を見ることだ。アカデミックな視点に埋没してもいけないし、現実をただ生きるだけでもいけない。両方の視点を持ちつづける強度こそが、「社会学」を支えているのだ。

以前も引用したことがあるが、見田宗介の名文をもう一度だけ引きたい。

社会学の)「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求しつづける、という覚悟の結果なのです。
(中略)
それがどのような問題であっても、自分にとってほんとうに大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。

 

「自分にとって本当に大切な問題にどこまでも誠実である」こと。この態度こそが、凡庸でもなく知的遊戯でもなく、アカデミズムとジャーナリズムの両方の視点をもった論考を書く手がかりになると思う。

「萎え」のはなし

11月5日

長くこのブログを放置してきたが、今日から少し続けてみようと思う。

できるだけ毎日書き続けようと思う。毎日書き続けることで、なにかが突破口のようなものが見えればいいのだけれど。

 

最近ひしひしとある種の「萎え」のような感覚を抱くようになった。よくよく思い出してみると、学生のころから頻繁に感じていたのだが、近年になってまたその感覚を強く感じるようになった。

「萎え」と表現してみたが、これがぴったりくる表現だとは思っていない。けれど私の手元にある言葉のどれを当てはめてみても、なかなかうまく当てはまる言葉が見当たらない。倦怠、不安、退屈、飽き、焦燥。どれもどこか言い得ているようで、まったく言い得ていない。しいていえば「萎え」が一番近いかと思ってこの表現を使っている。

じつは大学院に行っていたころ、この感覚を人文・社会科学的に研究して、修士論文を書いた。ずいぶん前の話だ。そのころは「萎え」とは呼んでいなかった。たしか「偶然性の縮減」と呼んでいたと思う。

難しそうな言葉を使っているが、簡単なことだ。たとえばサッカーの日本代表戦をテレビで観たとしよう。もちろん日本が勝つかどうかわからない。緊迫した場面になるとハラハラするし、一喜一憂する。ゴールを決めれば歓喜し、決められれば落胆する。

しかし同じ試合を、録画してもう一度観たとしよう。今度は結果をすべて知っている状態だ。もちろん同じ感覚では観られない。歓喜も、落胆も、それほど大きくない(というか多くの人にとってはゼロだろう)。

ごく当たり前の話で、初見にくらべて、同じものを二度目に観たとき、気持ちは「萎え」る。それはなぜかというと、観ている出来事に(主観的な)偶然性が含まれているだ。ボールがどこに飛んでいくか、誰がどう蹴るか、ゴールを決められるか。これらは偶然に委ねられている。しかし2回目に観た時、そこには一切の偶然性がない。すでに結果が分かっている出来事、つまり必然の出来事だからだ。わたしたちが何かに一喜一憂したり、希望を抱いたり、落胆したり、夢を見たりするのは、そこに「偶然」が入る余地があるからだ。目の前の出来事から偶然がなくなってしまった瞬間に、人は「萎え」るのだ。

 

修士論文では、この事実から現代社会を分析してみた。つまり社会そのものが「萎え」ているのだ、と。

たとえば1度目の東京五輪の時代。つまり高度経済成長で日本が沸いていた時代。その時代を評して「皆が希望を信じていた時代」というような表現がなされることがある。映画「ALWEYS三丁目の夕日」で描かれるような世界観だ。その時代に希望が持てたのはなぜか。今は貧乏だが、将来豊かになることが分かっていたから? いや違う。豊かになることが確定的に分かっているのだとしたら、粛々と計画通りに豊かになるだけだ。その時代にある種の興奮的な希望が伴っていたのは、「未来がわからなかった」からだ。未来がわからなかったからこそ、その不明瞭な部分に夢や希望を投影することができたのだ。

人はたとえポジティブな未来であっても、確定的に分かっている出来事には興奮しない。たとえば日本代表が圧倒的勝利を飾った試合の録画を想像してみよう。その試合が喜ばしいことは間違いないが、2度目、3度目の観せられては興奮はどんどん逓減していく。期待感に胸を膨らませ、状況に一喜一憂するためには、「未来が分からない」ことが必須条件なのだ。

そういう意味でいえば、今日の時代において、未来の不明瞭さはますます縮減しつつある。もちろん「未来が分からない」というのは動かしようもない事実だが、状況証拠を積み上げて、「なんとなく分かってしまう」ことがある。

難しいことではない。明日も太陽が東から昇るように、明日も私たちの人生は通常通りに進行する。それは確定的ではないものの、ほぼ確信に近いとさえいえる。さらに近年のインターネットの日常化によって、「明日」だけでなく「そこそこ先の将来」まで、「なんとなく分かってしまう」という時代が進行している。一体どういうことか。

たとえばミュージシャンを目指している若者がいたとしよう。もちろん今も昔も、ミュージシャンとして成功を収めるのはたった一握りだ。しかし今にくらべて情報が限られていた時代は、「そうした夢半ばで諦めた人たち」はほとんど見えなかった。もちろん多少は目にすることもあっただろうだろし、伝聞的に忠告を与える人もいただろう。しかし現在では、実際にそういう人たちを大量に知ることができる。つながることができる。自分と同じような実力で、自分と同じような努力をしている人が、どれくらい夢を諦めているか、どのような将来をたどるか。確率として、どれくらい成功できるか。いわゆる「サンプル数」に事欠かずに、自分がどういう将来をたどるか「なんとなく分かってしまう」のだ。

そのような現象はいたるところで確認することができる。たとえば就職活動。その昔は「金の卵」などと称され、「果ては医者か大臣か」などと期待を抱かれる時代は、もうない。学歴や能力や努力などによって、確率的に将来の就職先(のランク)が「なんとなくわかってしまう」のだ。

わたしたちがいる社会は、そういう社会だ。情報を得ることによって、どこまでも「萎え」ていく。未来が確率的に「なんとなく分かってしまう」。まるで一度観た試合をもう一度見せられているように。

 

修士論文の話をするのにずいぶんと長くなってしまった。論文を書いているとき、もちろん私自身もその「萎え」を感じていた。だからこそ書いた。そして、今またその「萎え」を感じている。未来がなんとなく見えてしまっているような気分。さて、どうしたものか。

 

JJエイブラムス「スターウォーズ7ーフォースの覚醒」

スターウォーズ7を観た(@二子玉ライズ)。
よかった。どの方角からも(批判の)矢が飛んでくる状況のなかで、よくあそこまで仕上げたと思う。的確な落とし所だ。旧部作ファンに目配せしつつ、しっかりエイブラムス風の新しいスターウォーズを作り上げた点は高評価だ。

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勝敗よりも勝ち方が未来を決める

ルサンチマンは終わらない

 フランスでIS(イスラム国)による同時多発テロが起こった。

 報道によると、6カ所以上で合計120人以上が犠牲になった。痛ましい惨劇ではあるが、どうしても「起こるべくして起こった」感は否めない。日々のイスラム情勢に関するニュースを見ている人であれば、たいてい「ああ、やはり起こったか」という感覚を抱いただろう。

 それは結局のところ、9・11からつづくイスラム諸国の西欧諸国に対するルサンチマン(憎悪感情)が、原理主義者による破壊行動に表出したに過ぎないからだ。

 

 だからこのテロは終わらない。

 おそらくフランス・アメリカをはじめとする西欧諸国は、IS壊滅作戦を本格化させることだろう。そしてその作戦は、個別には成功する。幹部クラスの逮捕または殺害というニュースで、わたしたちはそれを知るだろう。

 しかしそれでもテロは終わらない。なぜならテロの主体(行為を生み出す張本人)は、アルカイダやISといった個別組織ではなく、イスラム諸国にあるルサンチマンそのものなのだから。

 

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