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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

高橋源一郎「優雅で感傷的な日本野球」


優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)優雅で感傷的な日本野球 〔新装新版〕 (河出文庫)
(2006/06/03)
高橋 源一郎

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・風呂上りに読む文章

 音楽には、いくつかの役割がある。スピーカーの前に座って集中して聴くクラシック音楽があれば、環境のなかに溶け込んだBGM的な音楽もある。そのどちらかが正しい受容方法というわけではなく、どちらもそれぞれに音楽としての役割を果たしている。

 文章も同様である。きちんと文意を追って、行間を読み、その背景にある意味を考えながら読む文章もあれば、なにも考えずに流れるように文字を追っていく文章もある。これも優劣のある問題ではなく、それぞれの文章としての役割である。

 高橋源一郎の書く文章は後者に当たる。つまり、意味を考察したりせず、ただ流れのままに読む文章なのである。もっといえば風呂上りのすこしぼぉとした頭のときに、寝そべりながらだらだらと読む。「さよなら、ギャングたち」も「ゴーストバスターズ」もなにも考えずに読むほうが心地いい。

 こういう受容方法について、文学への冒涜だとか、そういう堅苦しいことを言わないでほしい。文学が堅苦しい「ゲイジュツ」になってしまったのは、たかだか数百年前の近代文学の誕生以降のことである。肩肘はって本を読む必然性はない。

近代文学の評価軸
 近代文学は、基本的に3層構造になっている。「文字」・「世界」・「作者の真意」である。まず記号としての「文字」があり、読者がそれを読み、そこから想像力を使って小説的「世界」を再構築する。そのあとにアレコレ考えて、小説的世界の裏側にある「作者の真意」を解釈していく。

 このような3層構造的な近代文学において、その文章の優劣は、だいたい2つの要素で決まる。その一つが「どれだけ小説的世界が詳しく、正確に描写されるか」というリアリズム評価軸。これは、情景描写や心情描写にこだわる人が持っている「ものさし」である。

 そしてもうひとつが「作者の真意がどれだけオリジナルか」というオリジナル評価軸。これは、小説の意味を解釈したがる人が持っている「ものさし」である。小林多喜二は、労働者の過酷さを描写することによって、ブルジョア社会構造そのものへの批判的な視点を獲得した、とか言う人たちがここに入る。

 だいたいこのような評価軸で作品を判断している人にとって、自分の評価軸に当てはまらないものは、低レベルな商業小説であって「ブンガク」ではない。リアリスティックでオリジナルな意味があるもの以外は、ゲイジュツでもブンガクでなく、紙の無駄遣いなのである。

 もちろん、従来の近代文学の評価軸でこの作品を批評することもできる。リアリズム評価軸は使えないけれど、オリジナル評価軸は十分使える。たとえば「わざと無内容な言葉を用いることで、従来の文学的言語を否定し、根本から批判する新しい文学」だとか言い方は色々ある。

 でも、そういうのはもういいんじゃないか、と私は思う。この本は、読んでいるだけで不思議な気分になるし、妙に心地よい。作者の真意とか、意味とか、そんなことを考えているとこの気分が台無しになってしまう。何も考えず記号のなかを「戯れ」ていれば、それだけで楽しい。とくに第二章の「ライプニッツに倣いて」の滅茶苦茶さは至高である。

 だからこの本について「あらすじ」の紹介やその文学的意味を解説することはできない。この本のあらずじをしいて言えば、野球のない世界で野球を探す旅に出かける物語、ということになるが、そんなこと言われても全くよく分からないと思う。

 とにかくここで伝えたいのは、文学的な「読み方」や「評価」といった先入観を捨てれば、この本はとても心地いい、ということである。