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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

大澤真幸「不可能性の時代」


不可能性の時代 (岩波新書)不可能性の時代 (岩波新書)
(2008/04/22)
大澤 真幸

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・現代の「閉塞感

 現代社会を診断するときに、よく「閉塞感」という言葉が使われることがある。不思議なもので、「現代は閉塞感に覆われている」というとき、何だかよく分からないけれど、なんとなく当たっているような気がする。確かに私たちの社会には「閉塞感」がある。ではこの「閉塞感」とは、一体どういうもので、なぜ生まれてきたのか。

 すぐにわかることは、この「閉塞感」は単なる表面的な現象ではないということである。たとえば「日本経済がこれ以上成長しない」とか「働きたいけれど職がない」というような個別的な問題ではない。もっと根深く、もっと社会の原理的な問題なのである。

 大澤真幸がオウムサリン事件から3・11までの間に書き続けていたのは、このことだった。私たちの社会は一体どこにいるのか、そして一体なにが問題なのか。

・虚構の時代の果て

 そのことを分析するために、大澤はまず見田宗介の「戦後日本の時代3区分」を底本にする。見田宗介は戦後日本社会を、それを駆動させる原理的メカニズムに沿って、3つに時代区分した。

  1. 「理想」の時代   アメリカ的ライフスタイル、マルクス主義など「理想」を原理とした社会
  2. 「夢」の時代    科学的な未来社会、ディズニーランドなど「夢」を中心として駆動する社会
  3. 「虚構」の時代   バブル経済、ブランド消費などの「虚構」がメインポジションだった社会

 ご覧いただけるとわかるとおり、「理想→夢→虚構」の流れは、現実に対する反現実の度合いがだんだんと大きくなる過程である。理想は、未来に実現化すると予測された現実のことであり、比較的、現実と近い。しかし虚構ともなると、現実とはなんの関わりももたない反現実なのである。

 つまり我々の社会は、ずっと社会の中心にある「反現実」を参照しながら駆動してきた。そして、それはだんだんと「反現実さ」を強める方向へと流れていたのである。

 大澤の問題意識は、この見田分析に従いながらも、近年、この時代区分が当てはまらない現象が山積してきたということである。大澤は、1995年のオウムサリン事件で「虚構の時代」は終焉したと思っている。つまり現代は、「虚構の時代の果て」なのである。

・「現実への回帰」と「現実の排除」

 「虚構の時代の果て」の時代は、見田の分析のとおりならば「虚構」よりも反現実度合いが強い社会になるはずである。しかし大澤は、むしろ「現実への回帰」が進行していると述べる。

 たとえば「リストカットなどの自傷行為の流行」「若者の戦争への欲望」「リアルさを売り物にするTV番組」など。むしろ「リアルさ・暴力性・危険性」といった過度な「現実」を現代は志向している。これはある程度、若者文化と接している人であれば、経験的に理解できると思う。たしかに私たちは「リアルな現実」を望んでいる。

 しかし一方で現代社会は、見田分析のとおり、反現実度合いの強まりも観察することができる。たとえばセーフティセックス、カフェイン抜きコーヒー、ノンアルコールビール、危険性のないバーチャル恋愛。これもまた経験的にわかる。「リアルさ・暴力性・危険性」を徹底的に排除し、きれいにパッケージ化したものを求める心性も確かに現代の特徴である。

 この二つの真逆のベクトル「現実への回帰」と「現実の排除」を、一体どのように説明すればいいのだろうか。大澤は、この謎の先に「現代の閉塞感」を解明する手がかりがあると睨んでいるのである。

・不可能性の時代

 大澤は、この二つのベクトルに対してこのように結論づける。

 

これら、ふたつは、ともにXへの対処法なのではないか。両者が互いに矛盾した方向を指し示すのは、Xが、決して、それ自体として認識したり、同定したりすることができず、それゆえ、直接に体験や行為の対象にはなりえないからではないか(166)

 「現実への回帰」も「現実の排除」も、共に「認識できないもの」に対する2種類の対処法なのである。「認識できないもの」、つまりこの「不可能なもの」が現代社会を動かす新たな「反現実」として機能していると大澤は述べる。それではこの「不可能なもの」とはなにか?

 

<不可能性>とは、<他者>のことではないか。人は、<他者>を求めている。と同時に、<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないだろうか(192)

 「不可能なもの」とはつまり「他者」のことである。「他者」というのは哲学用語で、主体が決して理解できないもののことである。

 人は「他者」を求めながらも、同時に「他者」を恐れている。これは「オタク」を見れば分かり易い。彼らは他者との交流を求めているが、それでも他者を恐れている。だからこそ、「他者性を抜いた他者」つまり自分の思い通りになる、自分の理解可能な範疇にある他者を執拗に求める。それが、ヴァーチャルな人格を愛するという態度に結晶しているのだ。

 「他者」とは理解の極北にあるものであり、「他者性を抜いた他者」とは本来ありえないものである。すべてを理解できる他人、自分が完全にコントロールできる他人はありえない。そういう「ありえないもの」を求める時代が、不可能性の時代なのである。

 では「他者性抜きの他者」を求める心性が、なぜ「リアルさ・暴力性・危険性」を求め出すのか。他者性抜きの他者を求めることは、他者とより深いレベルの結びつきも求めることでもある。より直接的に触れ合え、より相互にすべてを理解できる関係。

 たとえば、タレント上原美優は、自殺する直前に「心友がほしい」と漏らした。「心友」とは、心が通じてなんでも分かり合える友達のことである。また、「オタク」作品ではよく「幼なじみ」が描写されるが、これは生まれる前から知っていてすべてを分かり合っているような関係が志向されているのである。

 ここで問題になるのは、現実ではそういう関係はありえないということである。ここで、歪みが起きる。それが偶有性(他でもありえる)という感覚である。

 深いレベルの結びつきとは、つまり絶対的・運命的な結びつきのことである。しかしそれには常に、他でもありえた、違う可能性もあったという意識がつきまとう。「私が今ここにいる必然性」「あなたが私の隣にいる必然性」。それを考え出してしまった時点で、深いレベルの結びつきが損なわれはじめる。その偶有性をかき消して、必然性の感覚を得られる方法が「暴力的リアリティ」である。

 「暴力的リアリティ」は、自分が必然的にそこに存在しているという感覚を強めてくれる。リストカットした腕から流れる血と痛みは、わたしがここに存在してるという必然性を確かめることができる。なぜなら記号や解釈といったものは、時代によって変容したり、人によって見方が変わったり、「まやかし」だったりする。しかし、<u>今自分が感じている身体的な痛みや胸の高ぶりは、疑いようのない事実だからである。</u>

 このことよって、「他者性抜きの他者」を求める心性は、一方で「リアリティを欠いた他者」を求め、もう一方で、必然性の感覚を得られる「暴力的リアリティ」を求める。これが「現実への回帰」と「現実の排除」が現代で併存する理由である。

・記号に還元されないもの

 この本の中盤には、酒鬼薔薇事件についての論考があるが、これが一番「現代」を分かりやすく表しているように思う。

 この事件の容疑者の少年は、自己の存在を投影できるものを欲していた。しかし彼にとって、それは「記号」ではなかった。肩書きや学歴やファッションや思想などに自分を投影することは、自分の代替可能性を認めることになる。だからこそ彼は、「記号に還元できないもの」を求めた。

 「記号に還元できないもの」とはなにか?

 大澤はこれを余剰Xと呼ぶ。たとえば大澤真幸という名前は、「社会学者」「元大学教員」「男性」「長野県出身」などさまざまな記号に置き換えることができる。しかしこれらすべての記号を並べても「大澤真幸」を100%補完することができない。この記号に還元できない余剰なものこそが、余剰Xである。

 これは古代では「魂」というふうに表現されてきた。酒鬼薔薇少年が求めていた「記号に還元できないもの」とは、この余剰Xのことだったのである。

 ではどうやってこの「余剰X」を確かめるか?

 それは「人を殺す」ときの手応えである。彼は「人を殺す」ことを「壊す」と表現していたが、これは彼が「人をモノ扱い」していたというわけではない。むしろ「人を殺す・モノを壊す」の差異を知ることを欲望していたのである。この差異こそが余剰Xであり、それを確かめることが彼の最大の使命だったのである。

 確かにこの例は極端である。しかし多かれ少なかれ、私たちは「記号に還元できないもの」「他者性抜きの他者」を求めてはいないだろうか。スピリチュアルブーム、新興宗教の台頭、純愛ブーム、<つながり><絆>を求める社会。それらは求めても決して得られないものである。しかしそれでも求めてしまう。これこそが現代における「閉塞感」の正体なのではないか。