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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

三谷幸喜「古畑任三郎」


警部補 古畑任三郎 1st DVD-BOX警部補 古畑任三郎 1st DVD-BOX
(2003/12/17)
田村正和、西村雅彦 他

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・古畑にないもの

 古畑任三郎を見ていて私がいつも心地よく感じるのは、ラストシーンである。だいたいいつもラスト間近になると、古畑が犯人を追い詰めて、自白に持ち込む。私が好きなのはそのあとである。観念した犯人が動機を語る。「だけどね、古畑さん。わたし別に後悔なんてしてないのよ。だって…。」それを古畑がにこやかに聴きながら、「お気持ちお察しします」。そして最後に古畑が「それでは参りましょう」といざないながらエンドロールが流れる。

 そこには推理ドラマに大抵あるはずのものがない。それは「説教」である。『相棒』の杉下警部も、金田一耕助も、はぐれ刑事も、だいたい自白のあとに主人公の「説教」が入る。「あなたの辛い気持ちは分からなくもない。だからといってこんな身勝手な犯行が許されるわけではない。あなたは殺された被害者の家族の思いを考えたことがあるのか…」。そして犯人は泣き崩れて、エンドロールが流れる。

 あれほど退屈するものは他にない。

 犯人が犯行にいたる動機は、十人十色で人間味がある。その一方で、主人公の説教は、当たり前の「正義」を決まりきったセリフで述べられる。まったく楽しくない。

 「たとえどんなことがあっても人を殺してはいけない」、そんなこれまで何千回と言われてきたセリフを繰り返して恥ずかしくはならないのだろうか。

・鮮度のない言葉

 もちろん私は殺人肯定をしたいわけではない。ただ、使いすぎて効果のなくなった「言葉」をさらに使って何の意味があるのか、という疑問を呈しているだけである。戦争反対、いじめダメ、差別やめよう。こういう誰も疑いようのない「正義の言葉」は、もちろん正しい。けれどそれを口にしたところで誰の心も動かせない。

 大切なのは鮮度のある言葉を語ることである。鮮度のない言葉は誰の耳にも届かない。そして、誰の耳にも届かない言葉は、なんの効力もないし意味もない。政治家の「遺憾の意」のようなものである。

 こういう「鮮度のない言葉を語ること」の違和感は、多くの人が共有している。特に若い人ほどその傾向が顕著であるように感じる。古畑任三郎があれほどの人気を誇ったのは、このことが関係しているのではないか。私はそう思う。

 ただ、古畑任三郎が人気を博してはや十数年たった。今ではもはや、上でいったような「正義批判」すら鮮度のない言葉になりつつある。今では、ポストモダンとか脱構築とか相対主義なんて言葉はほとんど肯定的に使われることがなくなっている。果たしてこんな状況で、一体どんな「言葉」を発すればいいのだろうか。