SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

真木悠介「時間の比較社会学」


時間の比較社会学 (岩波現代文庫)時間の比較社会学 (岩波現代文庫)
(2003/08/20)
真木 悠介

商品詳細を見る

・日本社会学の長老

 真木悠介というのは、見田宗介の筆名である。見田いわく、社会学者としての要請として書く書物が「見田宗介」を名乗られ、個人的な学術的関心から書く書物が「真木悠介」と名乗られる。わたし個人としては、「真木悠介」のほうが面白い。見田宗介本も「現代社会の理論」とか「まなざしの地獄」とか刺激的は本がたくさんある。ただ、真木悠介の方がなにか「熱さ」のようなものがある。この謎を解きたい、この問題を解決したいというような想いが伝わってくる気がする。

 見田宗介といえば、日本の社会学会では知らぬ人がいないスーパースターである。大澤真幸宮台真司吉見俊哉などの売れっ子学者たちの師匠であり、東京大学の見田ゼミ出身者は、見田山脈と呼ばれるほどの大御所ぞろいである。

真木悠介として取り組んだ問題

 そんな彼が生涯をかけて取り組んだ問題が、この社会に竦む「ニヒリズム」と「エゴイズム」だった。人生は虚しい、そして自分は孤独であるという二つの感覚は、いくら「そんなことないよ」と慰められても不可避的に出てきてしまう感覚である。それは近代的理性そのものに内在するものであり、明晰な思想家はたいていこの2つの問題にぶち当たってしまう。見田が「真木悠介」として取り組んだ問題は、いかにしてこの2つの感覚を乗り越えるか、という問題だった。

・時間意識への着目

 この真木的な問題のひとつの「ニヒリズム」を考察するために書かれたのが、この『時間の比較社会学』であった。ついでに「エゴイズム」に取り組んだ著作が『自我の起源』である。そちらもかなり面白い。

 この近代社会には、特定の時間意識の型がある。つまり「時間をどういう風に捉えるか」というルールみたいなものである。私たちは普段、時間はただ過去から未来へ向かって一定に流れていると感じている。しかしその時間意識は、近代社会の誕生によって生まれた産物である。私たちは近代によって誕生した時間意識の型をもとに時間を捉えているのである。

・目的論的時間と時計化される時間

 そしてこの近代的時間意識こそが「ニヒリズム」の元凶である。なぜなら、近代の時間意識は「目的論」的性質を持っているからである。目的論的な時間とは、「未来のために現在を生きる」という生き方である。大学受験のために高校生活を送る、就職活動のために大学生活を送る、出世のために会社で働く。つねに現在は、未来に従属させられている。

 しかし、その最後に待っているのは「死」である。「~のために」という積み重ねは、結局「死」という無に回収されていまう無意味なものだ。こうして近代的時間意識は、不可避的に「ニヒリズム」を引き起こしてしまう。

 このことを真木は、「つぎつぎとよりかなたにある未来に向かって現在の意味を外化してゆく時間の感覚」というふうに表している。このことによって私たちは、「現在を充足させる」ことを疎外されてしまっているのである。

 近代的時間意識の悲惨さはこれだけではない。真木は、近代の時間意識について「目的論的な時間」のほかに「時間の時計化」という特徴を挙げている。これはとくに時間にルーズな文化を旅行するとよくわかるけれど、我々の生活は普段、「時計」の支配下に置かれている。何時になにをする、何分までにどこにいく、そして遅れることは許されない。そういう生活が当たり前になっている。こういう生活も近代の特徴とひとつである。

 一社会の基礎的な産業部門と経済システムが、分単位にまで精密化された活動の時間的編成をその内在的な要求としてもつということ、そして一社会全体の生活が一般に…時計的に編成されていることは、近代社会の特質である。

 すでにみたようにまず工場と官庁が、次いで学校が、最後に放送、とりわけテレビジョンが、近代人の<生活の時計化>の領域を順次拡大し、密度を細密化していった。

 生活の時計化は、生活の様々な部分で進行した。そのことによって「時間を忘れて生き生きとした現在を楽しむ」という瞬間がますます疎外される。近代人は、まさに時間の奴隷なのである。

コンサマトリーな時の充足

 「目的論的時間」「時計化する時間」によって失われるものを真木は、「コンサマトリー(現時充足的)な時の充足」とよぶ。ようは、春の日差しを浴びながらゆっくり満喫するような時のことである。近代的な理性は、このような生の充足感を失わせてしまう。もちろんすべてを忘れて一瞬だけ生を充足させることはできる。しかしそれは問題を先送りしただけで、根本的な解決にはなっていない。結局私たちは時間の奴隷になるしかないのである。