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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」


イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)イッツ・オンリー・トーク (文春文庫)
(2006/05)
絲山 秋子

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・「絶世の美女」

 絲山秋子の作品をはじめて読んだのは、たしか大学生の頃だった。その頃は「面白いものを書く新しい作家はいないか」と思って新人賞を取った作品を順番に読んでいた。それで当たったのがこの「イッツ・オンリー・トーク」だった。素直にすごいと思った。内容は若い女性の独白なのだけれど、その文体に妙に惹かれた。

 それと同時に、これを書いた人はたぶんめちゃくちゃ美人なんだろうと想像した。意図的にそうしたわけではなくて、文章を読んでいると自然と、凛とした丹精な顔立ちの女性が頭に浮かんだのである。「絲山秋子は、柴崎コウ仲間由紀恵長谷川京子をあわせたような絶世の美女だ」と勝手にイメージしていた。それから後にグーグルで画像を検索するまでは…。

 

 そういうことってよくある。歌手とか作家なんかは、本人の顔よりも本人の作品のほうを先に知ることが多い。だからイメージと実物が全然違うというガッカリ感もよくある。

 ちなみにわたしの母親は、エルトン・ジョンがそうだったらしい。あの歌声を聴いてエルトン・ジョンを超絶イケメンだと思っていたのだそうだ。実物は、子豚みたいである。

・本心を語らない独り言

 そんなことよりこの本である。「イッツ・オンリー・トーク」は、物語らしい物語はなく、淡々とした女性の日常が描かれた短編小説である。幾人かの個性的な男性が登場しては、彼女の前から消える。

 なにより私が惹かれたのは、彼女の文体である。基本的にはシンプルなやや乾いた文体で、ハキハキと語る。けれど、なんだかよく掴めない。なんとなく本心を語っていないような感じがするのである。ただ、曖昧に濁されていたり、明らかに嘘をついているというわけではない。ハキハキとしているが本心が掴めないような感じ。

 おそらく私が「絶世の美女」をイメージしたのは、このあたりの機微が原因なのだと思う。とにかく、私はその文体の不思議な感じに惹かれてしまったのである。  

石原慎太郎の評

 ホントか嘘か分からないけれど、この作品が芥川賞の候補に挙がったとき、石原慎太郎がタイトルについて「なぜ、英語なんだ。『ただの洒落よ』じゃなぜダメなんだ」と語ったらしい。あの人の芥川賞の評言はいつも滅茶苦茶なので、たぶん本当にそう言ったのだろう。

 この人の言語感覚は本当によく分からない。あのサバサバとして乾いた雰囲気の小説のタイトルが「ただの洒落よ」だったら、そのほうが神経を疑ってしまう。なんでもかんでもアメリカナイズ批判をすればいいというものではない。日本語でも英語でも、最も効果的で作品に適した言語を使えばいいのである。

 「イッツ・オンリー・トーク」と「ただの洒落よ」という二つの言葉は、意味は同じでもそれが伝える効果はまるで違う。「飼う」と「飼育する」が違う効果をもつのと同じである。

 果たしてどちらのタイトルがより効果的で小説に適しているかは、是非、読んでみて判断してほしい。