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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

嶋根克己・藤村正之「非日常を生み出す文化装置」


非日常を生み出す文化装置非日常を生み出す文化装置
(2001/03)
嶋根 克己、藤村 正之 他

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・「日常/非日常」という視点で現代文化をみる

 面白い学術書というのは珍しい。たいていの学術書は、読者を面白くさせるという目的で書かれていないし、だいたい重箱の隅をつついたような細かい話に終始してしまう。そういう議論を面白く感じる人にとっては面白いかもしれないけれど、それ以外の人にとっては、たんなる苦痛でしかない。

 一方でこの本は、学者向けに書かれてはいるが、それほど難しい前提知識もいらないし、だれにとっても身近な問題を取り扱っている。だから、もしかしたらその分野に興味のない人でも面白く読めるかもしれない。ただ文章や内容が平易なため、フーコーとかデリダとかの難しい本が好きというような「哲学っ子」の人にとっては物足りないかもしれない。

 この本は、私たちが生きる現代の文化現象を「日常/非日常」という構図に当てはめて考えるとどういうことが見えてくるか、という実験的論考である。「無気力な若者」「自分探し」「先のことを考えずに今だけを生きるライフスタイルの隆盛」「オリンピック・W杯に沸く若者」。このような現象は、もちろん昔から存在していたものの、現代になってその意味合いが変化し、急速に支配的になってきた。

 なぜそのような現象が支配的になったか、そのような現象をどういう風に解釈すればいいのか。このような問いに対して、本書は「非日常を生み出す文化装置」という枠組みを使って説明を試みている。

 

・非日常を生み出す文化装置

 「非日常を生み出す文化装置」というのは、簡単にいえば、私たちを非日常的な体験世界に誘うものである。たとえば「祭り」なんかはその典型である。祭り空間では、通常とは違う論理で動いている。普段やらないこともやるし、気分も高揚して、まるで通常とは異なる「時空間」にいるような感覚に陥る。

 本書では書かれていないが、「お酒」も非日常を生み出す文化装置だろう。日常から切り離された感覚を味わうことができるもの、それが「非日常を生み出す文化装置」である。

 そして、おそらくこの本の筆者(8人いる)の全員が、現代は「日常」が肥大化・全域化した状態にある、という見解を共有している。つまり少し前は「非日常」だったものも、だんだん日常化してきている、ということである。

 たとえば、「音楽」というのは、未開人の時代からずっと「非日常を生み出す文化装置」だった。音楽は宴の始まりを知らせるものとして用いられ、儀式の前には必ず音楽が演奏された。また、コンサートはひとときの非日常を味わうために、わざわざお金を払って出かける場所であった。

 しかし現代では、もはや「音楽」は、日常化している。街中どこにいっても様々な音楽が流れている。ラジオやテレビでも四六時中、音楽が垂れ流され、もはや音楽で「非日常体験」を味わうことが難しくなっている。

 筆者のひとりは、昭和天皇崩御阪神大震災のときに、日常から音楽が消えた異様さを証言している。「No life, No music」のコピーが表すように、音楽は日常であり、もはや「音楽がないこと」のほうが非日常になるという逆転現象が起きているのである。

・日常化する現代における「非日常」

 しかし「日常が肥大化・全域化」したからといって、この世界から「非日常」が消えるというわけではない。ひとつの「非日常」が消えれば、また新たな「非日常」が現れる。ある意味で、現代文化は「非日常が日常化され、また新たな非日常が生まれる」という運動を繰り返している。

 たとえば、現代人には馴染み無いかもしれないが、一昔前の人たちにとって「都会の喧騒」は非日常を生み出す文化装置だった。ウォルター・ベンヤミンは「都会の喧騒」を、人々に眩暈を起こさせ錯乱させるものとして捉えていた。 たしかに今でも渋谷の交差点を歩くことは、普段の日常とは少し違う感覚を味わう体験でもある。

 

 しかし、非日常体験は常に慣れてしまう危険がある。もはや「都会の喧騒」でお祭り気分になる人はそうそういない。つまりひとつの「非日常」が日常化してしまったのである。

 そこで新たな「非日常」が生まれる。それが「ディズニーランド」や「競馬場」などの「非日常」を体験できる商業施設である。そこでは、空間的に「日常」から隔離させ、違う世界にいるような感覚を味あわせてくれる。

 ところが今日の情報化する時代、たっぷりと知識を蓄えた人間が増えることで、資本化された「非日常」に素直に喜べない人たちも多く登場してきた。観光するにしても、私たちは前もって多くの情報を手にしている。ディズニーランドにしてもそこはもはや未知の異空間ではない。

 つまり私たちは、情報をたっぷりと吸収することによって、また「非日常」をひとつ潰してしまったのだ。

 では、そのときに新たに生起する「非日常」とはなにか。本書ではその点について様々に考察されているが、私は「情報化されないもの」だと思っている。つまり「非言語的なもの」。もっと端的にいえば「身体感覚」である。

 「身体感覚」とは、我々にとっての「未知のもの」の最後のフロンティアである。それは「ライブ主義」「現場主義」という風潮に端的に現れている。これは「現場にいって肌で感じることこそ絶対なのだ」という価値の表明である。こればかりは情報化して他人に伝達することができない。客観的世界の事象のほとんどが情報化された時代において、唯一情報化できないもの、これが身体感覚なのである。

 この身体感覚を「非日常を生み出す文化装置」として使用することは、かなり危険を伴っている。その端的な例が、オウム真理教が実践するヨガだろう。長いあいだ瞑想にふけったり、普段とは違う身体動作を繰り返すと、私たちは不思議な身体感覚を味わうことができる。それはひとつの非日常体験である。

 しかしこれを「悟り」や「人間としての段階が上がった」として捉えることは、あまり正当性がない。このような非日常体験に、悪意ある物語を当てはめたのが「タントラ・ヴァジラヤーナ」と呼ばれるオウムの暴力的思想だった。

 身体感覚は、他人に伝達できないために、様々な「解釈」が可能になる。だからこそこの「非日常」は、一歩間違えると「悪意ある物語」にいとも簡単に吸収されてしまうのである。

 このように現代文化を「日常/非日常」という視点から眺めることは、私たちの文化に対する明晰さを深めてくれる。説明できないものが、説明できるようになる。だからこそ、この本は面白いのである。