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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

中村雄二郎「共通感覚論」


共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)共通感覚論 (岩波現代文庫―学術)
(2000/01/14)
中村 雄二郎

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学術界の「8対2」の法則

 昔、博士課程の先輩にきいた話だけれど、学術界にもいわゆる「働きアリの法則」が成り立つらしい。「働きアリの法則」とは、ビジネス界でやたら引き合いに出される小噺で、「売上全体の8割は、2割の従業員によって生産されている」というものだ。聞いたことがある人も多いと思う。

 これは学術界も同様で、学術的に生産性のある業績の8割は、2割の学者によって生産されている。なるほど、そうかもしれない。

 しかし「学術的に生産性のある業績」というのも、2つにわけることができる。既存の研究を発展させる「道を舗装する」仕事と、新規の研究を生み出す「道を作る」仕事。そしてこれもだいたい「8対2」くらいの割合になるのである。これは別に学者の怠慢というわけではなくて、ただそれほど生産性がありかつ創造性のある研究というのは難しいということである。

・中村雄二郎と感性

 とくに「哲学者ではなく哲学研究者」と揶揄される人が多い日本哲学界で、明らかに生産性がありかつ創造性のある「哲学者」といえば中村雄二郎だと思う。私はそれほどに彼の著作を読み込んでいるわけではないが、おそらく彼を貫く関心は、「感性」なるものをどう位置づけるかという問題だと思う。

 「感性」とはなにか、どのように作動するか、理性とどのように関係しているか。このように「感性」の働きは謎に満ちている。現代哲学でも、「感性」を考える土台を与えたカントの第三批判をベースに、日々新しい仮説とコンセプトが打ち立てられている。

 そのなかで中村は、「共通感覚」というやや古びた概念を磨き上げ、それをもとに「感性」に関する問題群に挑もうとした。それがこの『共通感覚論』である。

・常識の地平

 中村が「共通感覚」という概念を引っ張り出してくる際に、まず問われるのは「常識とはなにか?」という問題である。一般的には「当たり前の知識とか当たり前の判断」のような意味として使われる。自民党の総裁が安倍晋三なのは「常識」であり、また遅刻したら謝るのが「常識」である。

 しかしそのような「常識」の土台には、私たちが日々、知覚し、経験し、思うというプロセスがある。それがなければそもそも「当たり前の知識や判断」は生まれてこない。

 <常識>は、現在ではあまりその知覚的側面が顧みられないでいるが、まさに総合的で全体的な感得力(センス)としての側面を持っている。常識とは<コモン・センス>なのであるから。…もともと<コモン・センス>とは、諸感覚(センス)に相わたって共通(コモン)で、しかもそれらを統合する感覚、私たち人間のいわゆる五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)に相わたりつつそれらを統合して働く総合的で全体的な感得力(センス)、つまり<共通感覚>のことだったのである(7)

 我々が考えている「常識」とは、コモン・センスの一側面でしかない。そしてその面だけを見ていても「常識」の全体像は分からない。「常識」という現象を捉えるためには、そのもう一側面である「共通感覚」についての理解を深めなければならないのである。

 「共通感覚」とは、五感を統合し、我々に総合的で全体的な感得力を与えるものとして定義されている。これは誰にも経験的にその存在に気づくと思う。私たちが環境から何かを感じるとき、わざわざ視覚情報と聴覚情報と触覚情報を独立に取り出して頭のなかで足し算する、というプロセスを経ない。大抵は、「全体的になんとなく感じる」という表現が正しいと思う。この「全体的になんとなく感じる」働きこそが共通感覚である。

 では一般的に考えられている「常識」とこの「共通感覚」はどのような関係にあるのか。

 すなわち、一人の人間のうちでの諸感覚の統合による総合的で全体的な感得力(共通感覚)は、あたかも、一つの社会のなかで人々が共通に持つ、まっとうな判断力(常識)と照応し、後者の基礎として前者が想定される。後者は内在的な前者の外在化されたものである、と(10)

 「常識」の基礎に「共通感覚」がある。そして「共通感覚」が外部化されたものが「常識」である。そしてこの「共通感覚」が、常識の当たり前さ(自明性)を形作るのである。

 なぜ中村はそんな概念を持ち出すかというと、「常識」をポジティブで可能性を秘めたものとして捉えようとしているからである。人文学や社会科学では、常識や自明性というのは批判の対象でしかない。いかに常識を打ち破るか、という文脈でしか登場することがなかった。

 しかし中村は、この常識を「豊かな知恵としての常識」というように、ポジティブに捉えようとしている。そのためには、「常識」を「共通感覚」とセットで考える必要があった。そうすることで固定的であったはずの「常識」が、日々変容し、経験に基づきながら組み替えられていくような「豊かな知恵としての常識」になれるのである。

・体性感覚v.s.視覚

 現代が「視覚」重視の時代であることはもはや疑いようがない。そして本来、豊かで可変的であるはずの「共通感覚」が常識化(固定化)するのも「視覚」が原因である。視覚はものごとをはっきりと図式化して捉える。そのことによって「なんとなく感じる」という作用が失われていくのである。

 つまり「共通感覚」には、固定化するベクトルである「視覚」と、可変化しなんとなく捉えるベクトルの「体性感覚(触覚的な感性)」がある。「常識」を実りあるものとして捉えるためには、まずこの体性感覚の働きを探らなければならない。

 この視覚と体性感覚の違いは、音楽を例にとると分かり易いと思う。音楽は一つひとつの音符の集合である。しかし我々はいつも音楽をそのようなものとして捉えない。音楽は「ひとつ」のメロディーやリズムである。そのようなものとして感覚することができるのが体性感覚である。

 実はロゴス(理性)の中心といわれる「言葉」も、視覚的でありかつ体性感覚的である。言葉には定義がある。しかし日々の生活の中で、定義よりも重要なのは、その言葉のもつ質感である。言葉の質感は、情動やイメージを喚起する。その際にもっとも必要なのは、体性感覚である。

 レトリックを駆使する文章家が言葉を選ぶときを想像してみるといい。ひとつひとつの言葉のもつ質感を感じ取り、イメージする。そのときに使われる能力は、客体として対象化する論理的能力ではなく、なんとなく感じる能力である。

 このように「常識」という地平には、我々の感覚と感性と理性を相互に変換し、生き生きと組み替えられていく可能性を秘めている。その動性の中心的アクターとなるのが、今回中村が取り出そうとした「共通感覚」なのである。