読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

エドワード・S・リード「経験のための戦い」


経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ
(2010/03/31)
エドワード・S. リード

商品詳細を見る

・一次的な経験と二次的な情報の戦い

 ロジカル人間が現場主義人間に敗北する、というストーリーは現代の十八番になっている。最近では「半沢直樹」でもそんな話があった。二次的情報を計算しロジカルに再構成する人間(なぜかいつも傲慢)は、経験を武器に戦う現場主義的人間(誠実でまじめ)を途中まで追い詰めるが、最後にはいつも現場主義人間が勝つ。正直にいって少し食傷ぎみの定形的物語である。しかし、そういう物語が重宝されるのが現代社会である。

 たしかに「情報化する社会で経験の価値を再評価する」言説は、物語だけではない。養老孟司は、現代を頭の中だけで作られた社会「脳化社会」だとして、これを批判する。なぜなら脳化社会は、原理主義オウム真理教といった、偏見に凝り固まった人間を量産してしまうからだ。情報の世界だけで生きる人間は、自己の論理にそぐわないものを切り捨ててしまうのである。

 その脳化社会に対する処方箋として養老が提示するのが「一次的経験」である。これはメディアに媒介されないような経験であり、ようは「自然に還れ」という主張だった。自然と接することで、自己は開かれた存在になっていく。情報だけでは感知できないものまで、感知できるようになる。

 この「知識や情報よりも経験が大事論」は、古くは思想家ハンナアーレントから最近では社会学者アルベルトメルッチまで、繰り返し主張されてきた。「他者に対して開かれた人間になれ」「身体感覚を重視せよ」と。

・「経験のための戦い」のオリジナリティ

 たしかにこの本は、脈々と続く「経験が大事」論の焼き増しにすぎない。リードは、二次的情報が溢れる現代社会に対して「一次的経験の擁護の企て」であると、この本の目的を述べている。

 しかしこの本のオリジナリティは、主張の内容ではなく、主張のやり方にある。リードの「経験が大事」論の特徴は、大きくわけて2つある。

 一つは、「経験が大事」論を哲学史の舞台で再構成したこと。リード、これまで副次的に語られてきた哲学史における「経験が大事」論を、ひとつひとつ取り出して整理しなおした。この本は、プラトンから、カント、ヘーゲル、デューイ、ローティまで、簡単に再構成してある。

 そして二つ目は、「経験が大事」論に新たな武器を与えたこと。それは生態学的心理学の「アフォーダンス理論」である。アフォーダンス理論は、1979年に心理学者ギブソンによって提唱された知覚理論で、これまでの「人間の知覚のやり方」を説明する理論にパラダイムシフトを起こした。リーチはこの理論を、より実践的に落とし込み、「経験が大事」論の武器に組み入れたのである。

ポストモダンとの戦い

 リーチの経験論における直接的な目的は、おそらくポストモダニズムの乗り越えだろう。もう少し詳しくいえば、ポストモダンそのものよりも、ポストモダンによって生じる「ニヒリズムや諦め」に対する処方箋であるといえる。

 ポストモダニズムとは、簡単にいうと「この世に絶対的に正しい価値はない」という相対主義である。リーチは、この主張には「仕方なく賛同」するものの、だからといってわれわれは「いかに生きるべきか?」という問いを見失うわけではない、と述べる。

 人間がいかに生きるべきか。リーチはその根底に「経験」を据える。

 われわれはこの問いに現実的で有用な複数の答えを出すことが可能だし、それらの答えを互いに評価することさえできる。しかしながら、そうする能力は一次的経験の世界に深く関与した哲学からしかえられない(57)

 「経験」を積み重ねることによって「人間の成長」が可能になる。これこそが「いかに生きるべきか」の問いであるとリーチは述べる。しかし価値が相対化されたポストモダン状況で、「人間の成長」なんていう素朴な概念がはたして通用するだろうか。

 ここで使われた人間の成長という概念について、それがなにか新しい絶対的な理念的なものであり、日常生活を評価するための歴史の外部にある基準であると言うつもりはない。しかしながら、人間の成長という概念は、制限された文化的拘束を負った偏見でもない。それはわれわれの現実、われわれが立つ場所についての判断-哲学的判断-である。それは論理必然的に確実なわけではない。わたしが思うに、それはわれわれの情況を記述するのに適切であるような判断である。またこの判断には著しい修正が可能である。深刻な批判にさらされたら、明らかにそれを修正しなくてはならない(72)

 「人間の成長」を形而上学的に証明することはできない。それはポストモダニズムが看過したことだ。しかし、経験的にいって「人間の成長」は決して無駄ではない。そのことをリーチはなんとか基礎付けようとしているのである。

アフォーダンス理論

 そのためにリーチが行うのは、知覚論の転換である。そしてその武器となるのが「アフォーダンス理論」である。正直にいって「アフォーダンス理論」はかなり難しい。外面的な理解は簡単なのだけれど、「なぜそういえるか?」「どのようにしてそうなるか?」という部分までカバーしようすると相当の努力が必要になる。なのでここでは外面的な理解にとどまりたい。

 まず従来の知覚論を説明しよう。人はどのように知覚し、それを認識するか。この問いに伝統的哲学は、「知覚の二重化」というスタンスをとった。つまり視覚で外界の情報を知覚し、その情報をさらに知覚することで解釈をする。知覚したものを知覚する、というプロセスである。空をみるとき、まず視覚で「空」の情報を仕入れて、その情報をさらに知覚することでその「意味」を認識する。

 しかしアフォーダンス理論では、この「知覚の二重化」を採用せず「直接知覚説」を採用する。つまり私たちは、外界から「意味」を直接的に摂取している、ということだ。これはどういうことかというと、私たちは「意味あるものしか見ていない」ということである。「まず外界情報を仕入れて、そこから解釈する」のではなく人間は、「外界にある意味を選び取って見ている」のである。

・選択肢をプリセットされた社会

 このような知覚論の転換が、どのように「経験は大事」論にとって有効な武器になるのか。それは「一次的情報」と「二次的情報」の経験の違いを識別できるということである。従来の知覚論では、この違いを識別できないでいた。どちらも「視覚から知覚し、知覚されたものを知覚する」というプロセスに変わりないからである。

 しかしアフォーダンス理論を採用すると、両者を識別することができる。人間は外界から意味を直接的に選び取っている。そのとき一次的情報は、その意味が無限に存在する。たとえば「空」を見るとき、わたしたちは「空の青さ」「雲の形」「太陽の位置」など、その風景から無限の意味を選択することができる。

 

しかし二次的情報には、その選択肢に制限がかかっている。たとえば「雲ひとつない青空」という記述(二次的情報)には、すでに他者の選択がなされており、「雲ひとつない青空」という意味しか得ることができない。つまり二次的情報と一次的情報の違いは、外界から摂取する意味の選択肢に、制限があるかないかの違いなのである。

 リードは、このことをもう少し現実に即した言い方で表現している。

 労働者、消費者、学生はますます現実的な選択(事業の計画や評価に由来する選択)に直面しなくなる。彼らが直面するのは、システム設計者がオプションメニューと呼ぶものからの選択である。すなわち、選択肢はプリセットしているのだ(122)

 二次的情報の経験は、「プリセットされた(前もって与えられた)選択肢」の選択である。他方、一次的情報の経験は、無限の選択肢からの選択なのである。そして、現代社会は、ますます「プリセットされた選択肢」から選ぶことを私たちに要求しているのだ。

・不確実性の恐怖

 なぜ「プリセットされた選択肢」から選ぶことを現代社会は強制するのか。これについてリードは「不確実性の恐怖」をその要因に挙げている。今日ほど人々が「リスク」について気にかける時代はない。それはアンソニーギデンズが看過したことだった。前もって未来の不確実性を計算し、潰しておくという態度は、現代人に課せられた使命である。このために「プリセットされた選択肢」が用いられる。なぜなら「プリセットされた選択肢」は、信頼できるからである。

 生が不確実であるという現実からの撤退は、いわゆる脱工業化文化を支配している諸傾向のなかにもっとも明らかに見ることができる。…同時にこの確実性の探求(これと並行して、制御の探求)は、日常的実践の領域にまで拡大される(87)

 リードは、このような「不確実性の恐怖」によって「プリセットされた選択肢」を強いられる現代的状況に対して、なんとか「無限の選択肢」たる一次的経験を復活させようとする。

 生きているということは、危険を享受し、間違いから学ぶことである。ところが、たいていの制度はわれわれに対して日常における危険も間違いも認めていない。生きられた経験が幸せの中核をなすという人間生活の基本的真理を学びなおすために、われわれは団結できるだろうか(97)

 しかし私はこのリードの企ては失敗に終わると思う。現代の「脳化社会」や「選択肢がプリセットされた社会」において、「一次的経験」はもはや失われたもののノスタルジーでしかない。我々が「古きよき時代の日本」や「地域社会」などのノスタルジーを語るとき、たいていは口だけで実際に復活することはない。覆水盆に帰らずである。

 それよりも、このような現状の社会においていかに生きるべきか、を探求したほうが現実的だと私は思う。