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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

イアン・ハッキング「偶然を飼いならす」


偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命
(1999/06)
イアン・ハッキング

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・社会は「偶然」をいかに処理してきたか?

 人間社会は偶然が大好きで、同時に大嫌いである。人との出会いにしろ、人生のライフプランにしろ、まったく偶然が介入しないような人生は全然おもしろくない。それに娯楽というのは、たいてい偶然を基礎にしている。決まりきった物事にはなんの興奮もない。人間は偶然が大好きである。

 しかしそれと同時に、人間は偶然が大嫌いでもある。アクシデントなく平穏無事に日々を過ごせるように神に祈り、もしもの場合に備えて手厚い保険に入る。また、少しでも危険の可能性があるものは事前に排除し、すこしでも安心を求めようとする。

 我々は「偶然」に対してどんな態度を取っているだろうか。

 イアン・ハッキングは、そんな疑問に答えようとしている。「統計・確率論的な技術」と「人間・社会」のあいだの関係の歴史を丹念に調べ上げながら、社会は「偶然」をいかに処理してきたか、という問題に挑もうとしている。

・決定論

 リスク社会論者たち(ギデンズやルーマン)が主張するように、前近代社会の「不確実性」の意味づけは、宗教が一手に担っていた。「もしかしたら今年は大旱魃が起こるかもしれない」「明日自分の家が火事で全焼するかもしれない」といった未来の不確実な可能性は、「神の御業」として心理的処理がなされていたのだ。

 そこでは「偶然」は、いわば「すでに決定されているもの」だった。ウェーバープロテスタント信者の思考プロセスを辿ったように、「世界はすでに神によって決められている」のだ。「偶然」は、あくまで人間が無知なだけなのだ。

 そのような決定論は、18世紀の啓蒙時代でも引きつがれていく。「偶然」の意味づけは、宗教の領域から科学・理性の領域へと移された。しかしそのときの科学・理性は、宗教のアナロジーをそのまま引用しているだけだった。つまり「偶然」は、「自然の因果律によってあらかじめ決められている」ものであり、ただ主語を「神」から「科学法則」にすり替えただけだった。

・偶然の飼いならし

 ハッキングによれば、「偶然」の意味づけに大変動が起こったのは19世紀になってからだった。ナポレオン帝政から本格的な国民国家編成期、つまり「今の形の社会」ができあがる頃だった。

 そのころになにがあったかというと、欧州諸国で次々と統計局が設置された。いわば「国家による国民の数え上げ」が起こったのだ。身長、体重、自殺率などあらゆる項目が統計された。

 このような「社会の統計化」が一体なにをもたらしたか。ここが本書の肝であり、もっとも面白い部分だ。まず自己把握の仕方が根本的に変わった。いわば統計的観点から自分を顧みる視点が生まれた。たとえば「平均人」とか「標準」といった概念が生まれ、自己反省に活用されるようになる。またマルクスデュルケームといった社会科学者たちは、統計的資料をもとに「社会と人間の全体像」を提示していく。

 このことは今でこそ当たり前のことだろう。けれど少し想像力を働かせると、その「大変動」が持つ意味を理解してもらえると思う。「統計的観点から自分を顧みる視点」が生まれることで、人の認識・思考・行動・社会制度までもまったく変わってくる。ここらへんはミシェル・フーコーが詳しい。

 こうして「偶然」は、決定論から離れ、統計・確率論に移行する。「あらかじめ神によって決められている」という主観的感覚、「○○パーセントの確率でこうなる」という推論に支配されるのだ。ここにきて偶然は、管理・制御の対象になる。つまり偶然は「飼いならされた」のだ。

 本書は、主に19世紀の「国家による統計の過熱」がメインで記述されている。しかしこの本が現代においてもつ意味は大きい。現代において「統計」の主体は国家から企業に移り、方法は手作業からネットに移行した。このことによって「偶然の飼いならし」は、一体どのような変容を遂げるだろうか。