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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

カート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」


タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)
(2009/02/25)
カート・ヴォネガット・ジュニア

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カート・ヴォネガットという人

 文章を読んでいると、その後ろ側にいる人(作者)の人となりが透けて見えてくるような文章が好きだ。それはなにも小説に限らず、人文書でも学術論文でもそういうことがある。読んでいるうちに、その人の思考や志向や嗜好が、ゆらゆらと立ち現れてきて、自分と一体化していくような感覚。

 最近、大学生の論文を読む機会が多いのだけれど、そういう意味でとても楽しい。正直に言って、調べ物は不十分だし、考えも浅い。けれど彼らの興味とその根源をたどっていくのは実に面白い経験である。

 カート・ヴォネガットを読むこともそのような経験のひとつだ。彼の小説はたいてい荒唐無稽なSFで、ただのSFよりも現実離れしている。しかし読んでいると自然に「アメリカの地方都市に住む心優しいおじさん」の姿が浮かび上がってくる。そういうSFって少ない。

・「時間」というインプリケーション

 彼の主要作品、とくに「スローターハウス5」と本書には、「時間」が重要な仕掛けとして小説を面白くさせる要因になっている。本書では時間を超越した領域に入った男が出てきたり、何億年という時間単位を生きる人工知能が出てきたりする。

 そしてそのことが読者をこれまで体験させたことのないような感覚に誘う。我々のような時間感覚をヴォネガットは単時的(パンクチュアル)と呼ぶ。その一方で、その単時的な時間感覚から抜け出した人物の感覚を、ヴォネガットはこのように表現する。ジェットコースターの全景を見ている人のようだ、と。

 つまり我々は、ジェットコースターに乗って次々と現れる風景を順番に見ることしかできないが、時間を超越したものにとっては、そのジェットコースターを全景できる、というわけだ。

 しかしヴォネガットが描く「時間を超越した人間」は、なぜかいつも哀しい。ラムファードも、サロも、「スローターハウス5」のビリーも。けっして全能の神として描かれることはなく、逆に哀しい不能感に打ちひしがれる人なのである。

 ここでこのように問うてみることができるだろう。つまり、なぜ我々は、このような荒唐無稽な「時間を超越する人の哀しみ」に共感し、それが世界的に受け入れられたのだろうか、と。

・近代人という病理

 さっそくだが、この問いの回答を提示しよう。それはこうだ。我々が「時間を超越する人の哀しみ」に共感するのは、それが荒唐無稽なものではなく、ある意味で、我々(近代人)のすべてが「時間を超越する人」だからだ。

 それはどういうことか。「スケジュール」というのは、現代では当たり前のものだが、ほんの数百年前には存在しなかったし、必要とすらされていなかった。なぜなら「時計」が普及していなかったし、そのために「時計に従う」必要もなかったからだ。

 「時計」が普及したのは、近代産業革命が起こって、(工場)労働が厳密に管理され始める頃である。そこから我々の社会は、「二重の時間」を生きることになる。ひとつは「現在を生きる<時間>」。花の匂いを嗅いだり、友人とおしゃべりをするような「生きられる時間」のことである。そして「時計的時間」。これは数字をもとに直線上に作られた抽象的な時間だ。

 現代を生きる我々は、ますます「時計的時間」の専制を生きている。未来の情報を取得し、計画し、そのプランどおりに生きることが推奨される。いわばジェットコースター(時間)の全景を眺める視点に立つことを強いられているのだ。

 このことはギデンズが「時空間の脱埋込み化」と呼び、ジョン・アーリが「クロック・タイム」と読んだ社会現象のことである。またそのことを人間の生きる喜びの喪失と結びつけたのが真木悠介の『時間の比較社会学』だった。

 我々は、ある意味で「時間を超越した人」である。そしてそのことが持つ意味を、物語を通して感覚させてくれるのがカート・ヴォネガット作品でもある。