ユルゲン・ハーバーマス「公共性の構造転換」
公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 (1994/06) ユルゲン ハーバーマス 商品詳細を見る |
・ハーバーマスがやりたかったこと
「ハーバーマスについて知りたいんですけど、何を読めばいいですか?」という質問をたまに受ける。たしかにハーバーマスは何か重大なことを言っているような気がするけれど、それが何か分かりにくい。そこでまず、ハーバーマスの根幹的な問題意識を概観したい、と思うのは自然なことだと思う。
この問いの回答にはいくつかのパターンがある。①「『コミュニケーション的行為の理論』を読みなさい」。これはたしかにハーバーマスの集大成的な大著であるが、いかんせん長いし分かりにくい。②「ハーバーマスの解説書を読みなさい」。解説書はたしかに重要だけれど、できれば本人を読んだほうが本質的な理解が得られる。
わたしは迷わず③「『公共性の構造転換』を読みなさい」という。なぜならほとんど背景的知識なしに読めるし、ハーバーマス的問題意識がわかり易く書かれているから。たしかに本書は、彼の博士論文がメインとなっていて、まだ「コミュニケーション」に主眼を置いていない時期に書かれたものである。
しかしハーバーマス理解において最も大切な問いは、「そもそもなぜ彼はコミュニケーションに着目したか?」ということであり、本書はその問いについて十分な理解が得られるのだ。
・公共性の成立
では、そもそもなぜ彼はその後、コミュニケーションに着目したか?
簡単にいえば、本書を乗り越えようとしたから、である。本書は、歴史的な公共性の変容を辿りながら、現代において公共性がいかにして崩壊したか分析している。
つまり崩壊した公共性をいかにして復活させるか? というのがその後のハーバーマスの学術的問題だったのである。
公共性とはなにか。簡単にいえば、プライベート(私的)ではないものがパブリック(公的)である。つまり私的なもの、誰か特定の人のものを除外していき、残った「誰のものでもないみんなのもの」が公的なものである。
ハーバーマスはその原型を初期近代のコーヒーサロンにみていた。当時のコーヒーサロンは、特定の誰の支配にあるわけでもなく、皆が平等に文化や政治について語り合う場だった。貴族も平民も、そこでは平等に発言権があった。そしていかなる外的な権力も介在しなかったのだ。
つまりこの公共性を帯びた討議空間は、王族にも政治家にも資本家にもコントロールされることない、平等で開放的で自律的な討議空間だったのだ。
ハーバーマスはこの公共空間こそが近代社会を民主主義的に運営していく源泉になっていたと述べる。それぞれの参加者が政治について思い思い語り、その議論から資本家にもマスメディアにも影響されない「市民の世論」が形成されていく。そしてその「世論」が政治に対して独立した力をもっていたのが初期近代の公共性の時代である。
・システムによる生活世界の植民地化
このようなある意味で理想的な「民主主義の夢」が、初期近代には実現していた(とハーバーマスは思っている)。
しかしハーバーマスが思い描く公共性は、資本主義の自己増殖サイクルが全域的に拡がるとともに、その自律性を失っていく。家産経済時代には、市民はほぼ自営業者であったが、組織的資本主義が加速するにつれて皆はサラリーマンになった。また、マスメディアが資本と結託したために、ニュースは「私的なもの(特定の誰かのもの)」になった。
このような変化をハーバーマスは、「システムによる生活世界の植民地化」と呼ぶ。システムとは、政治や経済といった社会制度のことであり、生活世界とは、そのようなシステムに回収されないような私たちが生活する場のことである。そして「システム」と「生活世界」の均衡が崩れ、「システム」が全域的に浸透していくダイナミズムが現代社会である、とハーバーマスは述べる。
公共性はあくまで「生活世界」から立ち現れるものだ。ひとりひとりの人間の意見が集約されながら「ひとつのまとまり」になる。これは純粋に「公的」なものだ。
しかし「システム」には、常に権力(特定の他者の力)が介在する。そのような場は、いくら巨大であろうとも「私的」なものにすぎない。
つまり「私的なもの」の専制が進行しているのが現代の様態なのである。
ハーバーマスは、初期近代に一時的に存在していたこの「公共性」をなんとか復権させようとする。参加者がみな平等で、オープンで、しかもシステムに対して自律的な「討議空間」こそが、民主主義に不可欠だと考えている。
そのために対等で生産的なコミュニケーションはいかにして可能か? という問いは、基礎を固めるために不可欠な問いだろう。
こうしてハーバーマスの関心は、「コミュニケーション」なるものの基礎理論の構築に向かうのである。