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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル1・2・3」


ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
(1997/09/30)
村上 春樹

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・独特の重み

 さきに白状しておくと、春樹作品において「ねじまき鳥」は私の中の最高得点である。というのも、本書は春樹作品の中でも異質的な「独特の重み」があり、それが私にクリーンヒットしたからだ。

 初期のような「シニカルで洒落のきいた都会的青年の独りごと」と、後期のような「同一主題の大量生産的くり返し」のあいだに挟まれて、本書は異質な光を放っている。

 その「独特の重み」を言語化して説明する能力はまだ私の中にない。でもいずれしてみたいと思っている。今回はその予備段階として「なぜ村上春樹は、暴力を主題化させるようになったか?」ということについて考えてみたい。

・肉感的なるもの

 ハルキストにとって本書は、あまり評判がよくない。その理由はふたつ考えられる。第一に「主人公がカッコよくないこと」。都会的でシニカルなハードボイルド主人公や、スマートな言葉遊びに興じる主人公は本書にはでてこない。逆に「ねじまき」の主人公は、ぶざまでみじめで要領が悪い。

 第二の理由は「具体的な暴力描写があること」。これは春樹作品の英訳者も白状している点である。本書では、拷問で敵兵の皮を剥ぐシーンや、主人公がバットで男を殴りつけるシーンがある。バーカウンターで片手間に哲学書を読みふける主人公を待っていた人達にとっては、がっかりする展開だっただろう。

 つまりハルキストの「ねじまき嫌悪」は、いわば「肉感的で」「具体的で」「現実的」な要素への嫌悪とみることができる。

 暴力とはつねに「肉感的で」「具体的で」「現実的」なものだ。暴力を主題化させる以上は、これらの要素は不可避的なものだったといえる。

 それにしてもなぜ「暴力」なのか?

宇野常寛の誤謬

 宇野常寛は、村上春樹の有名な「壁と卵スピーチ」に対しての違和感を告白している。それは次のようなものだ。

 村上春樹は、「壁(抑圧的な社会システム)と卵(壊れやすい人間)があったら、私は正しい正しくないに関わらず、常に卵の方に立つ」と語る。その教説は立派だが、システムはそもそも人間が生み出したものであり、「システム/人間」の区別を行うのも人間である。とすれば「私は無垢な人間である」という宣言を平然と行う想像力の欠如こそが問題なのではないか。

 たしかに私も同感である。歴史的にみても、「私は無垢な人間である」と平然と言ってのける人は常に厄介である。「私もシステムの一部であり、人間でもある」という両義的な態度のほうを私も尊重したいと思う。

 たしかに「壁と卵スピーチ」だけを読むと、このような違和感を抱くのは当然である。しかし村上作品を通して「壁と卵スピーチ」を再読すると、村上春樹はそのような安易な二分法に陥っていたわけではない、ということがわかる。

 どういうことか。

 彼の小説に出てくる「暴力」は、つねに個別的な人間に端を発している。それはシステム的暴力ではなく、ドロドロとした肉感を帯びている。

 「ねじまき」に出てくる皮剥ぎ男にしても、ワタナベノボルにしても、彼らは「システムに操られた無垢な人間」というわけではなく、「心の奥底にあるエロス的欲望の歪み」として表象されている。

 つまり村上春樹は、たとえ「暴力」がシステム的な形をとって作用するとしても、その根源は、あくまで人間的欲望であると考えていたのではなかろうか。

 本書のエンディングでは、主人公が「井戸」の下に降りて「悪」と対峙する。いわば自分自身の心の奥に降り立って、ドロドロとした暴力性と向き合うのである。

 ここにきて「なぜ村上春樹は暴力を主題にしたか」という初発の問いが見えてくる。すなわち「壁」でも「卵」でも、それが破滅的に壊れてしまうとき、つねに「人間の奥底にある根源的な暴力性」がある。「壁と卵」について語るとき、この暴力性は語らざるをえない不可避なテーマなのである。