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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

ウルリヒベック「危険社会」

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)
(1998/10)
ウルリヒ ベック

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・現代の見取り図

 この本の社会分析における価値は、マルクスの『資本論』のそれに匹敵するとわたしは思っている。『資本論』は、1867年に公刊されてから1970年くらいまで、その「現状分析」的価値を保っていた。もちろん「基礎理論」としての価値や、その後の思想的発展への寄与に対する価値はいまだに保っているが。

 ベックの『危険社会』は、そのくらいのスパンで有効性を持ちえる「現状分析書」だと思う。この本は、1986年に公刊されたが、約30年経った今のほうがよりベックが予見した「危険社会」に近づいているのだ。

 ウルリヒベックは、最初に「リスク」という言葉を社会科学の領域に引っ張り込んだ人であり、「再帰性」という流行語を広めた立役者でもある。現代の社会学は、まさにベックを基準として動いているといっても過言ではない。 

・第二の近代

 ベックの「リスク(危険)」概念を理解するためには、まず彼の「第二の近代」論を把握しておかなければならない。

 ベックは現代を「第二の近代」の時代と位置付ける。これをベックの言葉で表すと「近代化が近代化される」メカニズムが作動している時代である。

 近代化とはつまり、合理性が社会全体にいきわたる現象である。科学技術が社会に浸透し、より合理的な生産が可能になる。また、労働や組織も効率性のもとに組み替えられ、近代的組織が発展する。

 しかしこのような近代化は、唯一「近代化それ自身」には適応されなかった。つまりさまざまな物事を客観的に眺めて合理的に改造したが、「合理性」だけはノータッチだったのだ。

 第二の近代とは、これまでノータッチだった「合理性」すらも科学的懐疑の俎上にのせられるということだ。つまり「合理化の合理化」・「近代化の近代化」が進行するのが現代社会なのである。

・リスクの配分

 ではそのような社会は、どういう様相になるか。ここで「危険(リスク)」が登場する。「近代化」が科学的懐疑にさらされることで、はじめて人類は「近代化」の副産物に目を向けるようになる。

 これまでの社会では、環境汚染、原子力事故、食品偽装などの「近代化の負の遺産」は、とりたてて重要な問題ではなかった。しかし近代化が近代化されることで、こうした「危険(リスク)」が意識的に主題化される。

 それと同時に「危険」の質も変化する。たとえば原子力事故のリスクは、これまでとは違い、よりグローバルに広がり、責任の所在がわかりにくく、さらに被害そのものを確定できない(魚食べてたら知らないうちに被ばくしてることもある)。

 第一の近代で重要な問題は、「富の配分」であった。つまり「どこにお金が回るか?」が社会の関心事であった。そのために合理的な資本増殖が目指され、より富の配分に優位な「上位の階層」に参画することが目指された。

 しかし第二の近代で重要な問題は、「危険(リスク)の配分」である。つまり「どこに危険が回るか?」が関心事になる社会である。人々は危険のない町を選び、危険のない食品を買い、危険のない集団で、危険のない行動を目指すようになる。

 近代化がある程度完了し、物質的困窮の心配がなくなると、「富の配分」と並んで「危険の配分」が重大なテーマになる。つまり「近代化の負の遺産」が目につくようになるのである。

・個人化

 これほどまでに「危険」が意識化されるのは、もうひとつ原因がある。それが個人化だ。

 これまでの第一の近代は、危険の不確実性を制度的・集合的に処理してきた。男女の役割・結婚制度・核家族年功序列制度・仕事の画一的マニュアル。これらの社会制度は、個人が不確実性から身を守るための役割を担っている。

 このような「一般的標準」が機能しているからこそ、個人は「突然解雇されたり、いきなり誰かの怒りを買ったり」という「危険」を排除することができていたのだ。

 しかし第二の近代は、このような「一般的標準」をみるみる解体させていく

 社会道徳的な環境、家族、結婚、男女の役割等の分野において不安や不確実さを克服するために代々受け継がれてきた様式があるが、それは何の役にもたたなくなる。そして、これらの分野における不安と不確実さの克服は個々人にまかされることとなる。(314)

 近代化それ自体が近代化されるということは、つまりこれまで「当たり前」と処理されてきた価値が相対化させられるということでもある。このようにして社会制度の効力は弱体化していき、個人一人ひとりが自ら「危険」と対峙せねばならない状況へと陥ったのである。