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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

宮台真司「終わりなき日常を生きろ」


終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
(1998/03)
宮台 真司

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・1995年以降の閉塞感

 日本の社会分析家にとって、1995年はただの暦上の一年ではない重要な意味を持っている。彼らは95年以前と以降では、なにかが決定的に異なっていると感じている。時代の風が変わり、社会のメカニズムそのものが変容したのだと。

 もちろん、それを「考えすぎだ」と一蹴することもできる。「変わったと決めつけるから、変わったように見えるだけで、『現実』はなにも変わっちゃいない」と。

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしどちらか分からないのならば、とりあえず「変わった」と主張する人たちに耳を傾けてもいいんじゃないか。

・スピリチュアルブーム、オウム、原理主義

 「理性と科学」が全面勝利したこの現代で、再び「霊的なもの」に関心が集まるのはなぜか?

 「95年区切り論」を考える人にとって、この問いを立てたことのない人はいないだろう。オウム真理教の事件をきっかけとして、新興宗教やスピリチュアルブームなどの社会現象が頻発した。とくに若年層を中心として、「霊的なもの」は、ある程度のアクチュアリティを有している。

 彼らは一体なにを求めているのか?

 ここで本書の中から補助線を引いてみよう。災害ボランティアに行きたがる若者がいる。彼らは「ただの」ボランティアでは満足できない。身近にいる重い荷物を背負ったお婆さんに声をかけることはなく、わざわざ社会機構がマヒした「廃墟の中」でボランティアすることを欲望している。

 

 奇妙なことに、彼らが必要としたのは、「廃墟の中の」ボランティア活動だったのだ。「廃墟の中」でしか得られないものとは、いったい何なのか。(96)

 端的にいえば、答えは「未知なるものとしての未来」である。我々にとって「未来」とは、未知なるものであるからこそ、そこへ向かう意欲が掻き立てられる。いわば希望を持てる。

 それは「革命が完了した共産国家日本」でも「天皇を中心とした大和の国の復興」でも「科学技術に満ちた未来国家」でも構わない。なにかしら現状とは違う「なにか」が未来に実現されると思うからこそ人間は前に進むことができる。

 そうした「未来」が失われてしまった、「結局、未来は現在と変わらず、今の延長でしかない」という諦観を、宮台は「終わりなき日常」と呼ぶ。そして目標や目的を失った人間は、存在そのものが「あいまい化」していく。

 

 私たちにとって未知のもの(=秘密)がなくなった未来。私たちは「終わらない日常」のなかで方向感覚や自分自身の輪郭を見失ってしまう。(96)

 「廃墟」とは、まさに「終わりなき日常」のなかで「存在」を取り戻す手段である。「あいまい化した存在」にもう一度、輪郭を付着させる救済なのである。

 

 震災直後、ある警察幹部が私に次のように語っている。「ブルセラだ、デートクラブだと言ったって、東京大震災が起こればみんな改心するに違いないんだ」。ブルセラ東京の「終わらない日常」が震災の廃墟によって打ち破られるとき、若者たちは方向感覚や身体感覚を取り戻し、正しき道を生き直すに違いない―。しかし、そんな期待こそがまさしく「ハルマゲドン”による”救済」を願望するオウムの心そのものではないか。(97)

 「戦争が起これば若者はシャキっとする」と語るおじさんと、「ハルマゲドンがくれば人間は救済される」と信じるオウム、さらに「廃墟の中でボランティアすると生まれ変わった自分になれる」と希望をもつ若者。

 彼らは、「終わりなき日常」を脱し「未知の未来」を手に入れようとするという点で、3者とも同型の心性を持っている。

 何も「オウム」が特別に異質な思想なのではなく、その根本的な思想は、まさに時代そのものに共有されているものなのである。

・意味から強度へ

 「終わりなき日常」の中でいかに「オウムなるもの」を生み出さないか。それが宮台の最大の課題だった。もう少し詳しくいうと、「未知なるものとしての未来」が失われた現代において、いかに短絡的な「未知」を求めずに生きていくか、ということである。

 まず宮台はこのような戦略をとった。「(生きる)意味」を求めるからこそ、このような惨事が起こる。ならば「意味」を放棄し、「(生きているという実感の)強度」を求める生き方をすればいいのではないか。

 そのような「意味から強度へ」戦略のベンチマークとして宮台は、「ブルセラ少女」を紹介する。彼女らは、「生きる意味」なんて大層なものは求めないし、「未知なる未来」なんて必要ない。彼女らにとって大切なのは「今を楽しく生きること」である。

 その「強度」を高めることを価値とすれば、オウムのような事件は回避できるのではないか。

 しかしこの「意味から強度へ」戦略は、10年も立たない内に崩壊する。宮台が紹介した「ブルセラ少女」が、次々と「メンヘラ女性」に変貌し、自殺を図ったからだ。

 結局、「(生きる)意味」なしで人は生きていけない。それを回避しようとすると、「終わりなき日常」の「あいまい化」した世界に耐え切れず、精神を病んでしまう。

アイロニー戦略

 そこで宮台は方向転換する。これまで「意味を求めるな」と啓蒙していたが、今度は「意味を求めよ」と発言するようになった。「天皇主義」や「亜細亜主義」に関する発言が増えるようになった。

 これは単なる転向ではなく、戦略的転向であると、宮台はいう。

 つまり、まず一旦「意味」を求め、ある程度「存在や世界認識」が確定したところで、その「意味」は、多くの意味のなかのひとつでしかない。相対的なものでしかない、ということを啓蒙していく。いわば二段階戦略である。

 「意味」を求めなくても済むのは、そこそこ世界が分かっている大人だけである。若者はまず「意味」を求め、自らの世界を構築する。そしてしかる後に、その「意味」がすべてではない、ということを悟る。宮台はそのような戦略をとった。

 もし宮台戦略の根本的な問題意識を知りたいのであれば、本書と『制服少女たちの選択』は必須である。