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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

大塚英志・東浩紀「リアルのゆくえ」

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)
(2008/08/19)
東 浩紀、大塚 英志 他

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・思想的口喧嘩の対談本

 これまでで一番面白かった本は何ですか? と問われたら、私は間違いなく本書を挙げると思う。

 この本は、「物語消費論」の大塚英志と「データベース消費論」東浩紀という、新旧サブカル消費論者による対談本である。しかし読んでみるとすぐにわかるけれど、同時に「モダン対ポストモダン」の代理戦争であり、「旧世代対新世代」の精神的断絶を表した本でもある。

 世の中にある対談本の多くは、共通の問題意識を持ち、お互いを尊重しあいながら、両者の差異を乗り越えようと議論を深めていく「礼儀正しさ」を持っている。ときに「論壇同士の馴れ合い」に見えるほどに、気持ちよく話しが流れていく。

 しかしこの本は違う。

思想的立ち位置も正反対で、お互いを尊重しあう気もなければ、生産的な議論もない。いわば、ただの口喧嘩である。

 しかし読んでいるこちらとしては、「馴れ合い対談」よりも「口喧嘩」のほうが面白い。たしかにこの本から得るものは何もないのだけれど…。

・二人の立ち位置 

 唯一、大塚と東が共通しているのは、現状認識である。

 現代社会において、これまでの「大きな物語(共通基盤的な価値観)」が弱体化し、それに伴って、近代社会的・市民的・公的なものが機能不全を起こしている。

 そのようにして、「近代社会」からこぼれ落ちた若者たち(コミュニケーションや社会参画を拒否する「動物的」な若者)が出現した。

 それではそのような現状に対して、どのような「あるべき社会」を提示するか?

 ここまでが二人の共通の課題である。

 それに対する大塚の考えはこうだ。

たとえ「大きな物語」が失墜したとしても、「公的なもの・市民的なもの」は利用可能であり、それを使って若者を再教育するべきだ、と。具体的には、教育制度を整備し、知識人たちが啓蒙活動し、若者に「自立的で公的な市民」たるように呼びかける

 しかし東の立場は正反対である。

 今の若者に「市民たれ!」といくら叫んでも無駄である。なぜなら彼らはすでに「近代的市民の理想」が崩壊した時代に生きているから。だとすれば、「(東的な意味での)動物」でも生きていけるような社会制度をつくるべきである、と。

 

 つまり両者の違いはこうである。近代から逸脱した人間を再教育して近代にサルベージするか、それとも逸脱した人間でも生活可能な社会制度を保障するか、ということだ。

・東が余裕な理由 

 このような両者の違いから対談が開始される。しかし展開は、大塚が苛立ち、東がいさめる、その余裕っぷりに大塚がさらに激怒する、というものだ。

 一例を挙げてみよう。「社会にとっての知識人の役割」という話から、東は「知識人にはもはや社会を啓蒙する役割は果たせない」という諦めに近い主張をする。

大塚:君が批評家であり知識人であり、言論人であるという事実は客観的な事実としてある。でも、なぜそこで、君はスルーしちゃうようなものの言い方をするのか。つまり君が言っていることっていうのは、読者に向かって、君は何も考えなくていいよと言っているようにぼくにはずっと聞こえるんだよね。

:ええ。それは、そういうふうにぼくはよく言われているので、そういう特徴を持っているんだと思います。

大塚: そうやって居直られても困るんだって。

(中略)

:この議論は続けても仕方ないんじゃないかな。今、大塚さんはぼくの人格を批判しているので、それはやめたほうがよろしいんじゃなかと……。

大塚:人格の批判じゃないよ。議論の問題として、自分の人格の問題だから、ここから先は議論が成り立たないといったら……。

:大塚さんが先にそういう話をしている。なんであんたはそういう言い方なの、っていう話ばかりになっちゃってる。

 もはやただの口喧嘩である。

 しかし読者は、大塚の苛立ちがすでに「自らの負け」を宣言していることに気付いている。

 なぜなら大塚は口では「コミュニケーション」なるものに希望を見出しているものの、この対談自体が「コミュニケーションの断絶」を表しているからだ。

 「異なる者同士がコミュニケーションすることで、分かり合う(合意する)ことができる」というヘーゲルハーバーマス的理想が前提にあって始めて、「教育」や「啓蒙」や「市民社会」を語ることができる。そのことは大塚自身が主張していることだ。

 しかし「東と大塚のコミュニケーション」がいつまで経っても成り立っていない、という事実が大塚の前提を崩壊させている。

 一方で東は、「コミュニケーション」は近代的理想の産物であって、その土台すら逸脱してしまった現代の「動物的」な若者には無意味な絵空事にすぎないと主張する。

 そしてそれは「この対談が不調に終わること」が見事に証明してくれるのだ。

 だからこそ大塚はいらだち、東は余裕でそれをいさめる。ここに東がいう現代の深い「断絶」のリアリティが見え隠れしているのだろう。