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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

高橋由典「行為論的思考」

行為論的思考―体験選択と社会学 (叢書・現代社会のフロンティア)行為論的思考―体験選択と社会学 (叢書・現代社会のフロンティア)
(2007/07)
高橋 由典

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・行為論の面白さ

 「行為」とは、人間が意図した、意味ある行動のすべてを指す。

 仕事をするのも、ブログを書くのも、友達と意味のないおしゃべりをするのもすべて「行為」である。

 しかし「行為」は、たいていの場合、社会の規範や価値といったものに従っている。たとえば「朝、時間通りに会社に出勤する」という行為は、まず「時間は守られるべきだ」という規範があり、それが「就業規則」という制度に転換され、そしてその制度が「行為」を発動させる。

 行為論の最大の面白さは、このような拘束的行為ではない主体的行為にある。

 だが主体的行為とは、かんたんそうで実に難しい。なぜなら主体的行為は、自分では「主体的だ」と思っていても、たいていの場合、社会的価値の命令の奴隷にすぎないからだ。

 たとえば「会議で積極的に発言する」という行為は、一般的には「主体的行為」に分類される。

 しかしよくよく考えてみると、まったく主体的ではない。なぜなら、「会議で積極的に発言することは意義のあることだ」という社会的価値に拘束され、あたかもその価値に奴隷のように従っているからだ。

 では、社会的価値の奴隷ではない「行為」はいかにして可能か?

 主体的行為はどのように説明できるのか?

 

 

・体験選択という体験

 この著書の「体験選択」という概念は、この問いを解く手がかりになる。

 体験選択とは、「魅了される」「心惹かれる」「心打たれる」など、おもに受動態で表現されるような体験のことである。

 では、このような「受動態」の体験が、なぜ「主体的」行為といえるのか?

 

 まず高橋は、通常の「行為」を、社会制度の枠組みに従った選択である、と考える。

 さきほどの「朝、時間通りに会社に出勤する」という行為も、「会議で積極的に発言する」という行為も、無数にある選択肢の中から選択した結果であるといえる。

 しかし人間の行為には、そのような(理性的な)選択より以前に、すでに選択してしまった選択、というものがある。

 たとえば「一目ぼれ」は、ある主体(個人)が複数の選択肢のなかから一つを選択した、という意味では「選択」である。

 しかしこの「選択」は、(理性的な)選択よりも以前に、すでに選択してしまっている。

 気づいた時にはすでに、「この人しかいない」という選択が完了しているのだ。

 このような「すでに選択してしまっている選択」ような体験のことを高橋は、「体験選択」とよぶ。

 高橋は、「山に魅了されたビジネスマン」の例を挙げてこの「選択」を説明している。

 

 超多忙なビジネスマンは登山行為に不可思議な情熱を持っているのだった。彼は山と深くつながっている。他の対象との間にはこのような関係はない。彼は釣りやクルマやパチンコにはまったく食指が動かない。特定の対象(山)とのこのような関係は、「選択」という形容が相応しいように思える。むろんこの意味での選択は、ふつうの意味での選択(行為選択)とは異なり、彼が意図的に行ったものではない。気づいたときには彼は山に魅了されていた。だがその「魅了される」ことにおいて、彼がこの対象を他の諸対象から区別し、この対象に特別のコミットメントをしていることはたしかであり、そのあたりの事情は特定の料理を「選択」することと少しも変わらない。(3-4)

・制度からの指示に反する体験選択

 この「体験選択」が面白いのは、行為が制度からの指示を無視する局面がある、ということだ。

 さきほど述べたように、行為とは選択であり、その選択は社会的な規範・価値・権力などの指示に従っている。

 しかしこの「体験選択」は、それを無視する場合がある。

 このことについて高橋は、ある「反戦主義者」の例をもって描き出している。

 左翼反戦活動家である東堂太郎は、ある日、「赤紙」の招集をうける。そして仕方なく軍隊に入るのであるが、そこで「野砲」を目にする。東堂はその「美しさ」に心を奪われる。あれほど嫌悪していた「戦争の道具」に、どうしようもなく引き込まれてしまう。

 この例からわかることは、「体験選択」は、制度からの指示を無視する「場合がある」ということである。

 もちろんすべての体験選択が、制度を無視するわけではない。しかし体験選択は、通常の行為選択とは別の次元で発生するために、制度とは無関係に動き出してしまうのである。

 ここで、最初の問いを確認しておこう。

 社会的価値の奴隷ではない行為(主体的行為)はいかに可能か?

 この問いに「体験選択」を持って答えることができるだろう。なぜなら「体験選択」は、制度を無視して発動する行為であったからだ。

 しかし奇妙なのは、主体的行為にもかかわらず受動的である、という点だ。

 体験選択は、つねに受動的に発生する体験である。しかし、このような受動的体験こそが「主体性」の源泉となりえるのかもしれない。