SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

九鬼周造「偶然性の問題」


偶然性の問題 (岩波文庫)偶然性の問題 (岩波文庫)
(2012/11/17)
九鬼 周造

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・なぜ現代において九鬼周造が必要なのか?

 原発問題やリーマンショック事件を皮切りに「リスク計算」という問題が注目を浴びている。それと同時に、ビジネスにおいては、ビッグデータが活用され始めたり、『統計学が最強の学問である』などという書物まで出版された。このような「確率・統計」の知的技術は、現代社会と密接な関係になり始めた。

 このような「確率・統計」とは、言ってみれば、「偶然」をどのようにコントロールするか、という目的に収束する。サイコロを振ることや、人がどのように行動するか、ということは「偶然」の所産であり、それを客体化し、人間に操作可能なものにするために「確率・統計」が存在している。

 しかし現代において、我々は「確率・統計」といった小手先の手段しか語らず、そもそもの本質である「偶然」というものにまったく目を向けていない。「偶然」とはなにか。この問題を放置したままで、リスクや統計などを語っても片手落ちでしかないのである。

 ここに現代における九鬼周造の意義がある。おそらく「偶然」をこれほど自らの問題として正面から考えた哲学者は、九鬼周造をおいて他にいない。

 それでは、九鬼のいう「偶然」とは一体なにか?

・「偶然」とはなにか?

 九鬼によれば、『偶然性とは必然性の否定』(13)と定義づけられる。すなわち「必ずではない・無いこともある」という出来事が偶然である。

 しかし、だいたい我々が「偶然」を感じるのは、蓋然性の低い出来事が起こったときである。宝くじに当たったとか、道で旧友に出会ったとか。そのような、めったに起こらないことが起こったときに、我々は「偶然」を感じる。

 ただ、厳密にいえば、「宝くじに当たらない」「道で旧友に出会わない」ことも、一応は偶然である。なぜならそれも必然ではないから。すなわち「この出来事は必然ではない」という感覚つまり偶然の感覚をつよく意識するのが蓋然性の低い出来事なだけなのである。

 しかしただ「必然ではないこと」が偶然というわけではない。偶然にはもう一つ条件がある。

 それは「二元の系列が邂逅する」という性質である。これはどういうことか。

 偶然とは「私」単独では成り立たない。たとえば、「今日私はジーパンを履いている」というのは偶然ではない。もちろん「無いこともある」のだが、これを指して偶然とは呼ばない。

 偶然には、「他」が必要である。たとえば、「私が道を歩いている」という系列に対して「旧友が道を歩いている」という系列が邂逅(出遭う)ことで偶然が発生する。

 サイコロを振ることも、ほかの「手の力具合」や「風」や「地面の状況」といった「他」の系列と邂逅することによって、偶然が生まれるのである。

・確率との関係

 九鬼は、「確率」に対して否定的である。

 ふつう偶然を捉えようとするなら、まず「確率」を計算するというのが一般的な態度である。

 しかし彼は、本書の冒頭でこのように述べる。

 

要するに、確率論とは偶然そのものの考究ではない。「偶然」の「計算」とさえもいえない。偶然そのものは計算はできない。確率論が一定の視角において偶然性へ斜視を投げることによってその構造を或る程度まで目撃させることは否むことはできないが、偶然性の全貌に関して何ら把握を許すものではない。(15)

 すなわち確率は、偶然をまったく明らかにしていないと彼は言う。

 これはどういうことか。

 サイコロを振って3の目が出る確率は、6分の1である。

 これは、もし無限回サイコロを降ったとき、「6回に1回の割合」で3の目が出るということだ。しかしこれは「この時、この瞬間、3の目がでるか否か」いうことについて何も明らかにしていない。

 もう一つ例えを出そう。癌で死ぬ確率が50%だったとしよう。これは、さまざまな人の癌の経過を観察して半分の人が死んだ、ということだ。しかしこの確率は、「あなたが癌で死ぬかどうか」について何も明らかにしていない。

 蓋然法則(つまり確率)は、様々な可能性を総合した「巨視的地平」に立った法則である。しかしそれは、一回きりの個別的で具体的な「微視的地平」において何が起こるか、ということについて全く説明ができないのである。

 

 確率の先験性、経験性のいずれにかかわらず、蓋然法則はいわゆる巨視的地平において成立するので、微視的地平において各々の場面にどの目がでるかという偶然的可変性は依然として厳存しているのである。

 九鬼の偶然論でもっとも大切なのは、この部分である。

 どれほど人間の思考が発達して、さまざまな概念や知的技術が考案されたとしても、微視的地平の偶然性は決して消えない。なぜなら「確率・統計」と「偶然」は、まったく別の地平の問題だからである。

 これは「確率」だけの問題ではなく、理性全体の問題でもある。

 さきほどサイコロは偶然の所産であると述べた。しかし、仮に「サイコロを振るときのすべての初期条件」を人間が認識したとしよう。手の力具合やサイコロの初速、地面との摩擦など。

 このとき「3が出ること」は偶然か、それとも必然か?

 九鬼の答えは、偶然である。

 なぜなら、それでも「そうなりえなかった可能性」つまり偶然性は消えないから。

 そもそもあなたはサイコロを投げなかったかもしれない。そもそもサイコロを投げるあなた自身が存在しなかったかもしれない。そもそも自然法則が今のとおりではなかったかもしれない。

 そのような意味において根源的な「原始偶然」が存在する以上、「微視的地平における偶然」がなくなることはありえないのである。

 すなわち私たち、一人ひとりの存在が既に「そうなりえなかった可能性もある」という偶然の所産である。

 それをいくら理性や確率によって、つまり巨視的地平によって必然性を仮構しようとも、微視的地平の偶然性は消えないのである。

 現代社会において忘れ去られているのは、この微視的地平の偶然性なのである。