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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

東浩紀「弱いつながり」


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(2014/07/24)
東 浩紀

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東浩紀と偶然性

私は東浩紀という人物の本がわりあい好きである。

「存在論的・郵便論的」には圧倒されたし、「動物化するポストモダン」は今たまに読んだりするし、「情報環境論集」は修士論文執筆のときにかなり参考にした。

一番のおすすめは、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか」という初期の論文で、長編小説を読んだ後のようなくらくらする読後感だった。

それらに劣らず本書も軽快な文章だった。

やや一般向きな話だが、テーマとしては現代哲学のど真ん中をいくテーマでもある。

「旅」という身近な素材を、情報社会論や現代哲学でうまく料理している。

しかし一方で、

私は、東はもう少し本書の発刊を遅らせてもよかったのではないかと思っている。

後に語るように本書は、とっつきやすいテーマ設定のわりに学術的に重要な問題系を含んでいる。

すなわち「偶然性」をめぐる問題系である。

しかしこの「偶然性」の問題は、本書で頻繁に言及されるものの、考察そのものは少し浅いように思える。

冒頭で挙げた本たちような、問題をぐぐっと深めていくような東らしさが弱いように感じられたのだ。

では、それはなぜか?

・「偶然の出会いが人生を豊かにする」という意味

本書における東の主張は、とくに難しいものではない。

というよりもメインの主張の部分は、ごく世間的な意見をやや学術的に焼き増したにすぎない。

旅っていいよね。偶然の出会いがあって、人生を豊かにするよ。

これが東の根幹の主張だ。

もちろんホントはもう少し捻っている。

きちんといえばこうなる。

現代の情報環境は「偶然の出会い」をそぎ落とす方法に向かっている。その現代社会で、それでも人生を豊かにしていくためには、旅に出るのが一番だね、ということだ。

実際に彼の文章を見てみよう。

本書で「新しい検索ワードを探せ」という表現で繰り返しているのは、要は「統計的な最適とか考えないで偶然に身を曝せ」というメッセージです。最適なパッケージを吟味したうえで選ぶ人生、それは、ネット書店のリコメンデーションにしたがって本を買い続ける行為です。外れはないかもしれませんが、出会いもありません。リアル書店でなんとなく目についたから買う、そういう偶然性に身を曝したほうがよほど読書経験は豊かになります。

これが本書の核心的な主張の部分である。

すなわち「偶然に身を曝すことが人生を豊かにする」ということだ。

そしてそれが「旅」という物理的身体移動によって可能になる、と東は述べる。

では「偶然に身を曝すことによって人生を豊かにする」とは一体どういうことか?

東はそこまで言及していないが、おそらく「自分の認識枠組みの外側にあるものとの出会いによって、認識枠組みそのものが変容すること」だろう。

「人は世界を自分の見たいように見る」といったのはウォルターリップマンだが、そのようなステレオタイプ的認識枠組みは誰しもが持っている。

それを打ち破るような経験、「それ以前」と「それ以後」では自分自身が異なっていると感じぜられるような経験。

それこそが自己の認識枠組みの外側にあるものとの出会いである。

そのような経験は、偶然にしか起こりえない。

計画的・意図的な経験は、自己の認識構造を強化するだけだ。

偶然こそが、人間を「自己の外側」まで連れて行ってくれる。

そのことを指して東は「偶然に身を曝すことによって人生を豊かにする」と述べているのである。

・偶然の出会いはいかに可能か?

しかし問題はそこからだ。

旅をすれば必ず自己の認識構造を揺るがすような偶然の出会いがあるわけではない。

むしろ旅をしたところで、構造が変容するなんてことは「ない」ことのほうが多い。

観光社会学が指摘するように、人は「あらかじめ持っているイメージを再確認する」ために観光にいく。

すなわちガイドブックに載っているような「神々の島バリ」とか「情熱の国スペイン」といったイメージを「実際に再確認する」ことが観光の目的なのである。

どうしたってそうならざるを得ない。

たとえ「ガイドブックに載っていないありのままの姿」を見ようと意図したところで、それは「ガイドブックに載っていないありのままの姿」という紋切り型のガイドブック的イメージを意図しているにすぎない。

そして人間はその意図どおりに、まわりの環境を認識しようと(見ようと)する。

人間のステレオタイプ的認識はそれほど強固であり、いくら旅をしても結局は、構造を再強化する旅になることがほとんどだ。

それは誰しも経験したことのあることだと思う。

では、そのような自己の認識構造を打ち破って発生する「偶然の出会い」とはどういうものか?

東はこの問いにまで踏み込まずに論を閉じているのだ。

環境を変えれば(旅をすれば)偶然の出会いがある、とは言いきれない。

旅をして偶然の出会いがあることもあるし、ないこともある。

旅をしなくても偶然の出会いがあることもあるし、ないこともある。

結局、旅と偶然性の因果関係を説明できていないのだ。

しかし私は、別に東の主張に反対ではない。

偶然の出会いは、確かに自己の認識構造を変容させると思うし、

旅は、偶然の出会いを呼び寄せる最適の手段だと思う。

だからこそ、その因果関係を説明してほしかった。

なぜ旅が偶然の出会いの可能性を高めるのか?

そもそも、偶然の出会いによる自己変容はいかにして可能なのか?

その問いについて東が言及する日をもうすこし待ちたいと思う。