貫成人「哲学マップ」
哲学マップ (ちくま新書) (2004/07/06) 貫成人 商品詳細を見る |
・全体をマップ化することの効能
私が社会思想系の大学院に入ったとき、一番驚いたことは、「先輩たちはそれほど本を読んでいない」ということだった。
もちろん私に比べればみんな博識で古今東西のさまざまな本を読んでいる。
しかし私は、博士(およびその卵)というのはその分野の本を全部読んでいるものだと思っていた。
デカルトからカント、ヘーゲル、マルクス、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース、フロイト、ドゥルーズ、フーコー、ハーバーマス。ルソー、ホッブズ、ウェーバー、デュルケーム、ジンメル、パーソンズ、ミード、ブルデュー、ルーマン、ギデンズ、などなど。
しかし考えてもみれば、そんなわけはない。
全部読破するにはあまりに膨大だ。
今挙げた人物はほんの氷山の一角に過ぎないし、彼ら一人一人に各3、4くらいの必読書がある。
人生がいくらあってもすべても網羅するのは至難の業だろう。
彼ら(先輩たち)は、別にすべての本を読んでいるわけではない。
けれど、すべての本の学術史上の位置関係は把握していた。
それが全体をマップ化するということだ。
情報過多と呼ばれる現代に必要なのは、
情報をやみくもに吸収することではなく、
それらを俯瞰するマップを拡大し、精緻化していく知性ではなかろうか。
では、それはいかにして可能か?
・思い切って単純化してみる
本書は、よくある哲学の概論書のひとつであり、
タイトル通り「古今東西の哲学者たちをマップ化することで、初学者の理解を助けよう」という意図で書かれている。
別にその試み自体は目新しいものではない。
哲学に限らずとも、たいていの学術入門書はそのような意図で書かれている。
そのなかで本書の優れた点は、過度な単純化にある。
たいていの初学書(とくに哲学の初学書)は、単純化を嫌う。
まともに哲学書を読んでいる人なら、
「ヘーゲルが言いたかったことは、つまり○○だ」などと一言で片づけることの心理的抵抗は大きいだろう。
しかし本書はそのような心理的抵抗を一旦置いておいて、
えいやっと各哲学者たちの思想を一言で単純化している。
もちろんその単純化によって、
哲学者たちが大切にしてきた「機微」や「ニュアンス」が損なわれるかもしれない。
しかしそれは初学者が学問の入口で知るべきことではない。
そんなことは後から勉強して知ればいいのだ。
初学者にとって大切なことは、ある思想家が「だいたい」どういう風な業績をなしたのか、ということ。
つまり最初は「だいたい」をおぼろげながら掴むことがもっとも大切なのである。
・「問い」からマップを構成してみる
では、マップを構成するときに大切なのはなにか?
哲学でマップを構成しようとすると、たいていは「カテゴリー」でマップ化することが多い。
まず「マルクス主義」があって、そこから「実存主義」が出てきて、
ある日、「構造主義」が生まれる。そして「ポスト構造主義」が台頭する、といったところだろう。
しかしこのような「ラベル」を見せられても何の理解にも繋がらない。
重要なのは、それぞれの主義主張が「なにを問おうとしたか」ということだ。
本書では、○○主義とか○○学というようなラベルはほどんど重要視されていない。
つまりマップの構成軸として、ラベルが用いられていないのである。
そのかわりに用いられているのは「問い」である。
貫によると、哲学史は大きく3つに分けられる。(大胆!)
「○○とはなにか?」を問おうとした時期。
次に「○○とはなにか? ということを問おうとしてるわたしとは誰であり、なにを知りうるのか?」という問いに移行したという。
これはデカルトから始まる主観性の探求の時代である。
そして最後に現れた問いは、
「○○とはなにか? という問いがなぜ問われなければならないのか?」という問いだった。
これはすなわちニーチェから始まる真理の解体作業に連なる問いかけだ。
あまりにも単純化しすぎているようにも思える。
しかしこれくらい単純化して、「問い」から全体像を把握することが
初学者の第一歩になる。
そしてこれらは別に学問の入門書に限らないはずだ。
1年に何百冊も出版され、消費され、消えていくビジネス書も、
やろうと思えば全体像をマップ化することができるかもしれない。
たぶん需要はあると思うけれど。