SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

見田宗介「社会学入門」

社会学の面白さとは?

社会学というのは、学問のなかの「残滓」のようなところがある。

つまり、残りカス。日常生活でおこる疑問や問いのなかで、これは「◯◯学」の領分である、と規定できないようなものは、大抵「社会学」として扱われることになる。

 

たしかに社会学が答える問いには、日常的な疑問に根ざしているものが多い。

「普通、普通というけど、普通ってなに?」

「世間の目って、どういうこと?」

「なぜ友達からきたメールを返さないといけないの?」

「どうしてブランドのマークが入るだけで、みんなありがたがるの?」

「女らしさってなに?」

などなど。

 

身近で、俗っぽく、素朴な問い。

だからこそ、奥が深く、面白い。

 

その社会学の面白さを、生のままで伝えてくれるのが、本書である。

 

 

入門書に必要なのは「自分語り」

この本は、社会学の初学者に向けた入門書である。

しかしほとんど社会学の学説は出てこない。ウェーバーの「プロ倫」も、デュルケームの「自殺論」も出てこない。

入門書にもかかわらず、社会学学術紹介をまったくしないのである。

 

ではなにをしているか?

それは徹頭徹尾、自分の話である。自分がなぜ社会学を志したか、今どんなことに関心があるか、自分がどんな理論体系をつくったか。終始、そんな話がのっている。

 

そんな話を聞いたら、この本を「入門書にかこつけた自己満足の自分語り」と思う人もいるかもしれない。

しかし、この「自分語り」こそが入門書にとって最も大切なのである。

 

なぜか?

それは、学問の魅力を伝えられるのは、その学問を魅力に感じている人だけだからだ。その学問に心を奪われ、心の底から面白いと思える人にしか、学問の魅力は伝えられない。そんな人にしか入門書は書けない。

だから真に魅力的で、誰かの好奇心に火をつけるような入門書は、たいてい「自分語り」になる。自分が心を奪われた学問の面白さを、そのまま「生のまま」で伝えようとするからだ。

「ほら、こんなに面白いでしょ?」

 

 

初めの炎を保つこと

本書のなかでも序章は名文だ。

初学者だけでなく、社会学に携わるすべての人の心に火をつける。忘れていた「初めの炎」をもう一度蘇らせてくれるような文章である。

 

 

社会学の)「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求しつづける、という覚悟の結果なのです。

(中略)

それがどのような問題であっても、自分にとってほんとうに大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。

 

 

「自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実であること」。社会学の薫陶というよりも、人生の薫陶に近い。サラリーマンであっても、武道家であっても、野球選手であっても、そういう人だけが誰かの心に火を灯すことができる。