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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

文芸批評についてー現実と向き合うこと

「文芸批評」というジャンルの衰退が叫ばれてから久しい。わたしとしてはあまり興味のないジャンルなので、文芸批評が衰退しようが構わないのだが、まあ少しは気になる。わたしは社会科学系の専門だけれど、やっぱり近しい分野なのでどうしても先行きくらいは見守りたくなる。

 

群像2014年6月号の新人評論賞の選考委員である奥泉光は、選評の冒頭をこのような文章で始めた。

現在文芸誌の公募新人賞で評論部門があるのは、「群像」だけであるが、ここ三年ほど選考委員をやってみて、批評というジャンルの力の衰えをどうしても感じてしまう。文学研究とも社会学とも違う、批評としか呼びようのない形式は、二十世紀一杯で命数が尽きてしまったのか。(p111)

 なかなか手厳しい。だが確かに、優秀賞に当選した2作を読んでみたが、それほど面白くはなかった。

 

どういう点が「面白く」なかったか。

一つ目は、それほど斬新ではなかったこと。ようは目新しさ、驚きがない。結論が予想の範疇。これはいただけない。学術論文でも「新規性」は必須の要件である。これまでにない知識、これまでにない視点を提示しない文章は、厳しくいうと無価値のごみである。

そして二つ目は、現実と接点をもっていないこと。この点に関しては、評価が分かれるかもしれないが、わたしにとっては「現実と接点のない」文章は、つまらない。いま、生きている我々に、なんらかの形で関わりのあるテーマでなければ、いくら明晰な論理だろうともただの知的遊戯にすぎない。

もちろん「実用的であれ」という意味ではない。ビジネス書や自己啓発本がすべてではない。現代社会を生きるうえで、どうしても感じざるを得ない不安や軋轢や疑問や違和感というものがある。こういった感覚に明晰な言葉を与えてもらえるだけで大変に価値のあることだと思う。しかし今回の作品でいえば、そういった現実との関わりがなく、ただの知的遊戯に思えた。

 

「文芸批評の衰退」というものこのあたりにありそうだ。東浩紀も似たような指摘をしていた。文芸批評は「アカデミズム」と「ジャーナリズム」に2極化しているが、その両方とも、ある種の緊張感が失われていると。「アカデミズム」は、社会的(現実的)緊張感がなく、知的遊戯に没頭し、他方「ジャーナリズム」は、内容にオリジナリティがなく凡庸なメッセージしか発信できない。

アカデミックな批評には社会的緊張がなく、逆にジャーナリスティックな批評には知的緊張がない。つまり前者にはメディアの意識がなく、後者にはメッセージの意識がない。言うまでもなくこの二極化自体、批評を多少は貧しくしている。(郵便的不安的β,p13)

わたしが「哲学」ではなく「社会学」に興味をもったのも、こうした背景があるのかもしれない。「社会学」をやる上でもっとも大切なのは、現実を生きる感覚を保持したままアカデミックな視点で物事を見ることだ。アカデミックな視点に埋没してもいけないし、現実をただ生きるだけでもいけない。両方の視点を持ちつづける強度こそが、「社会学」を支えているのだ。

以前も引用したことがあるが、見田宗介の名文をもう一度だけ引きたい。

社会学の)「越境する知」ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとって本当に大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求しつづける、という覚悟の結果なのです。
(中略)
それがどのような問題であっても、自分にとってほんとうに大切である問題、その問題と格闘するために全青春をかけても悔いないと思える問題を手放すことなく、どこまでも追求しつづけることの中に、社会学を学ぶ、社会学を生きるということの<至福>はあります。

 

「自分にとって本当に大切な問題にどこまでも誠実である」こと。この態度こそが、凡庸でもなく知的遊戯でもなく、アカデミズムとジャーナリズムの両方の視点をもった論考を書く手がかりになると思う。