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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

村田沙耶香『コンビニ人間』

今年の下半期は、なにかのコンテンツをじっくり見る時間が一切なかった。映画や漫画すら読む時間がなかったので、ましてや小説なんて一行も読んでいなかった。電通の事件が可愛く思えるほどに忙しかった。だから「コンビニ人間」が流行っていることも知らなかった。けれど、ようやく出張の新幹線に乗るまえに入手して、読めた。

ああ、こういう感じ、好きだなと思う。

目の前の出来事をどこか他人事のように突き放して世界を眺める感覚。ただ冷めた人、といえばあまりにも単純なんだけれど、世の中にうまくはまることができない人。「世の中にうまくはまることができない人」というよくある定型にすら、うまくはまれない人。だから呆然と立ち尽くすことしかできずに、ただ眺めることしかできない。

昔、大学の図書館で絲山秋子の『イッツオンリートーク』を読んで似たような感覚になった。女性版のハードボイルド風私小説。カラカラに乾いた世界をただ呆然と眺める女の話。セックスして、不倫して、車でドライブして。まあいろんなことを体験して、いろんな事や人が彼女を通過していく。それを淡々とただぼんやりと眺めるように描写していく。

そのころ、たしか大学4年生で、就職活動をするつもりもなくただ毎日を悶々と過ごしていた。そういう時期の気分にはぴったりくる小説だった。なんでこういう「世界の眺め方」に心を打たれたのかはわからないけれど、社会にうまく適合できない違和感をいだくような人にとっては、結構新鮮な「世界の眺め方」だったと思う。ああ、こういう風に世の中を眺めればいいのか。なんだか関心したような気分になった。

『コンビニ人間』は、『イッツオンリートーク』よりもさらに尖っている。「世界の眺め方」の方法は同じだけれど、さらに強く、深い。ややクレイジーだ。けれど、別に主人公の行いそのものがクレイジーだというわけではない。小学生のころ、死んでしまった小鳥をお墓に埋めてあげようという母の言葉に反して「焼き鳥にして食べよう」と提案する、というシーンがある。たしかにクレイジーといえばクレイジーなんだけど、ありきたりなクレイジーさである。「死んだ小鳥はかわいそう」という「普通」の感覚がわからないただの少女のお話。小説世界では、よくあるといえばよくある。

ではなにがクレイジーかというと、主人公の「世界の眺め方」だ。それは端的に彼女が話す言葉に現れる。たとえば、主人公は清く正しいコンビニ店員であり、コンビニ店員としての秩序や振る舞いを体現した人間であるが、その彼女が新人のアルバイトに対して一声かける。

 

「あの……修復されますよ?」

「え?」

よく聞こえなかったのか白羽さんが聞き返す。

「いえ、何でもないです。着替えたら、急いで朝礼しましょう!」

コンビニは強制的に正常化される場所だから、あなたなんて、すぐに修復されてしますよ。

 

 

修復。こういうパンチのある言葉はそうそう出るものではない。意味合いとしては、洗脳とか規律化とか教育とかのワードが近いのだろうけど。ここで「修復」という言葉が出てくる36歳の女性コンビニアルバイト店員は、やはりクレイジーだと思う。

 

この小説について語るとき、彼女が「コンビニ」というシステムに全的に傾倒していることのクレイジーさが取り上げられることがある。タイトルもまさにコンビニ人間だ。「コンビニ」という誰もが普通は全的に傾倒しないようなものに傾倒することによって、「普通」というものの有様を描き出している、というわけだ。

けれど、わたしは少し違うと思う。

彼女は「コンビニ」に傾倒してはいない。もし「コンビニ」に全的に傾倒しているならば、「世界の眺め方」もコンビニ的になるはずである。グローバルビジネスパーソンに傾倒している人は、世界を「グローバルビジネスパーソン的」にしか眺めることができない。おそらくたこ焼き屋にいっても、ディズニーランドにいっても、経営者のビジネス的アプローチを学ぶのだろう。それはコンビニ人間とて同じはずである。

でも、彼女の「世界の眺め方」は、まるでコンビニ的ではない。もっともっと冷めた別の見方をしている。コンビニ的世界では、「白羽さんが『修復される』」とは言わない。たぶん「教育される」というだろう。そのことを「修復される」と見てる(眺めている)時点で、彼女はおそらく全的にコンビニ人間ではない。

彼女は、どんな◯◯人間でもない。その彼女が、いちおう、仮に、コンビニ人間というシステムを利用しているにすぎない、とわたしは思っている。その「かりそめ」の違和感というが、チグハグさが『コンビニ人間』という小説を面白くしている。だって、会社に全てを捧げる会社人間が、会社人間的な「世界の眺め方」で会社を語っても、たぶん全然面白くないだろう。そこには何の齟齬もなく、なんの軋轢もなく、なんの違和感もない。会社人間が、会社人間的ではない「世界の眺め方」を通して会社を語るからこそ、いわゆるビジネス小説はおもしろくなるし、一つの問題提起として機能する。それと同じ。彼女は、コンビニ人間ではあるが、コンビニ人間的ではない「世界の眺め方」を通してコンビニ人間のありようを語っている。だからこそ、この小説は、面白い。