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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

こうの史代原作・片渕須直監督『この世界の片隅に』①

2016年の年末にこの映画をみた。個人的には仕事がありえないほど忙しく、土日含めて深夜までずーと仕事をしていたので、ついつい観るのが遅れてしまった。それに公開前に予告をみて、『ほたるの墓』と『はだしのゲン』を足した作品だと思って、自分のセンサーに引っかからなかったのもある。
好評があちこちから湧き上がってきて、ようやく観たのが年末。

 

後悔した。ほんとうに後悔した。

なぜもっと早く観なかったのか、なぜもっと早くこの素晴らしさに気づかなかったのか。いつの間にかアンテナの感度が落ちていたことに気づいて、自分自身に愕然とした。「まあ、『ほたるの墓』的な作品ならみなくてもいいや」とタカをくくっていた過去の自分を殴りつけてやりたい。

これは明らかに日本映画史上の歴史に残る大傑作であり、歴史的偉業だ。
正直、この作品と同時代に生まれてほんとうによかった。現代ではもはや小津安二郎の映画を、「過去の名作」としてしか見られず、公開当時の空気感を味わえないのと同じで、たぶん『この世界』も、ある種の空気感が伝わらなくなる時代が来る。けっして作品の素晴らしさが時代を経て磨耗するわけでないけれど、「今」という時代を共有しているからこそわかる『この世界』の魅力は、たぶん数十年たつと分からなくなるだろう。そういう意味で、ほんとうに歴史に立ち会えた瞬間だと思う。

 

この作品を語るときに難しいのが、いかに「観た鮮度・感動」を言葉にできるか、だ。もちろん「体験」を100%言葉に置換することは不可能だ。それは哲学者に言われなくてもわかっている。しかし、適切な言葉選びと、言葉の文章量、そして適切な話し方を吟味すれば、70%、80%くらいは伝えられるような気がする。そう信じている。
『この世界』でいえば、たとえば「戦争における日常を丹念に描いた作品」という説明がなされることがある。たしかにそのとおりなんだけど、これでは、この作品の「感動・魅力・オリジナリティ」がなにひとつ伝わってこない。しごく凡庸でお説教くさい映画な気がする。

では、もうすこし抽象化したテーマにせまってみてはどうか。この作品は、『ありえたかもしれない過去や未来ではなく、いま・ここを生き抜くことの素晴らしさを描いた』作品である。多少マシになったと思う。でも、違う。やっぱりこれじゃ伝わらない。テーマの説明にはなっているけれど、テーマだけがこの映画の魅力ではない。

 

では、内容の話を抜きにして語ってみてはどうだろうか。この作品は、『テーマ性、ストーリーライン、作画、動画、音響、声優の演技など、その他、作品を構成するすべての要素が過去最高レベルで融合しあい、奇跡のハーモニーを奏でている前人未到』の作品である。まあ、熱はなんとなく伝わる。でも、これでいいのだろうか、という疑問は拭えない。

 

もしかしたらこういう説明が一番正しいかもしれない。この作品は、『言葉でどれほど語り尽くしても語れない。とにかく観ろ。なにがなんでも観ろ。一生後悔するぞ』