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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

こうの史代原作・片渕須直監督『この世界の片隅に』②

前回、テーマについての話をほとんどしなかったので、少しテーマについて掘り下げてみたい。こういう作品のテーマ分析をするのは、ある意味「野暮」な作業ではあるけれど。

 

この作品のテーマを見つけるには、映画よりも原作のほうがわかりやすい。原作漫画のほうが丹念にテーマの説明をしているし、ひとつひとつの出来事をうまくテーマと接続させている。映画のほうは時間の都合もあるのだろうけれど、そこらへんは「諦めて」いるような印象を受けた。それは「白木リン」のエピソードをまるまる削除したところからも伺える。賛否はあるだろうが、その編集は「苦渋の決断」だったのではないかと推測する。

 

『この世界』のテーマ自体は、それほど難しいものではない。物語の中盤、すずと周作が橋の上で会話するシーンにそのまま表れている。終盤の「悲劇」の前の静かで幸せな会話だ。

 

すず: 夢から覚めるとでも思うんじゃろうか

周作: 夢?

すず:住む町も仕事も苗字も変わって まだ困ることだらけじゃが

   ほいでも周作さんに親切にして貰うて お友達もできて

   今 覚めたら面白うない

   今のうちがほんまのうちならええ思うんです。

周作: ……なるほどのう

    過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな

    すずさん あんたを選んだんはわしにとって多分最良の現実じゃ

 

「過ぎた事 選ばんかった道」とは、呉にきたすずにとっての「広島」であり、周作にとっての「白木リン」であり、嫁いだすずにとっての「水原くん」であり、径子ねえさんにとっての「時計屋の家族」であり、終盤のすずさんにとっての「右手」ある。

みなが、それぞれ「過ぎた事 選ばんかった道」に想い馳せる。とくに終盤以降の怒涛の「悲劇」を目の前に、みな「選ばんかった道」へ逃げ込もうとする。しかしそれは「覚めた夢」、もうどうすることもできない。一度した選択は、もう取り返しがつかない。ならばいま、ここの現実を「最良の現実」として受け止め、生きるしかない。

それがこの作品のテーマである。

 

もちろんわかってもらえたかと思うけれど、このテーマは「戦争」ではない。「戦争」はあくまでも舞台設定であり、問題意識はとても現代的だと思う。

アンソニーギデンズが「脱埋め込み化」とよび、イアンハッキングが「偶然の飼いならし」とよんだ現代人の特徴とは、「リスク計算」だった。現代人は、「リスク計算」に駆り立てられている。保険屋も、健康番組も、経済ニュースのコメンテーターも、みなが「リスク」を警鐘し、個人にリスクを計算するよう強いる。「あなたにはこれこれの選択肢があり、それぞれの選択肢をよく吟味して選びなさい。さもなくば…」。

すると、誰も彼もが言いようもない不安に陥る。もちろん未来のリスクに対する不安もある。しかしもっと深刻で根深い不安は、「今、ここにいる私の選択は正しかったか」というものだ。◯◯塾に通い、◯◯大学に入り、◯◯会社に就職し、◯◯と結婚する。そうした自分自身を構成する過去の選択が本当に正しかったか?最良であったか?

こうした個人の実存にかかわる不安は「リスク計算」的な態度が染み付いた人間ほど陥りやすい。「まあ、いっか」という楽天的な諦観をえることができない。

ひと昔前の人であれば、「地震」は天から降ってくる災難だった。けれど今ではそれは「起こり得るリスク」である。だから私たちは「地震」に対してなんの準備をせずに亡くなった人を、素直に100%純粋に悲しむことができない。「リスク」である以上、回避の選択があったのではないか、という疑念がどうしても頭をよぎってしまう。「過ぎた事、選ばんかった道」をどうしても意識してしまうのだ。

 

そういう意味で、『この世界』のテーマは、現代のアンチテーゼとして機能している。「過ぎた事 選ばんかった道」ではなく、現実を最良のものとして生き抜くすずさんの姿に、現代人の不安を投影して、おもわず感動してしまう。どんな現実をも、幸せな日常に変換してしまうすずさんの「生きる力」に感服してしまう。

 

原作と映画の話にもどろう。映画で泣く泣くカットしたのは、こうしたテーマを駆動させるエレメントだった。この作品のテーマである「現実肯定」を描くには、2通りのやり方がある。ひとつは、「現実を肯定する様子を描くこと」。これはすずさんの日常描写にあわられる。少ない食料のなか工夫し、物資をやりくりする。モンペをつくったり、楠公飯を炊いたりするシーンだ。

そしてもうひとつが、「非現実と対比すること」。非現実との対比を鮮やかに見せることで現実を際立たせるやり方だ。それは、日常にたいする「戦争」であったりするわけだが、その核となるエレメントが「白木リン」だった。

先に、周作にとっての非現実が「白木リン」だったと述べたが、彼女はすずにとっての非現実としても描かれている。冒頭の座敷童を「白木リン」っぽい造形で描いていることからもわかるとおり、「白木リン」とは、もうひとりのありえたかもしれない「すず」の投影である。すずは、あたたかい家族のもとに生まれて居場所を与えられ、この世界の片隅で最良のパートナーに見つけてもらえた。しかし、そうではなかったかもしれない。そうではない現実がありえたかもしれない。彼女は、そのことを無意識に知っている。その結晶こそが「白木リン」だった。

 

そういう意味で、『この世界』を語るためには、「白木リン」の存在は欠かすことができない。それをまるまるカットしてしまったのは、かなり辛い決断だったと思う。現実的な予算やスケジュールを考慮して、「日常描写を丹念に描く」ことに焦点を絞った。まさに「二兎を追うもの一兎もえず」の格言を自分に課したのだろうと思う。

 

ただし、やってほしかったなあ。と思う。

まあ、「選ばんかった道」をくよくよ考えても仕方ない。