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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

吉本隆明「転向論」


マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)
(1990/10/03)
吉本 隆明

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・なぜ今「転向論」か?

 吉本隆明といえば、1960年代に活躍した思想家だし、「転向論」なんて戦前・戦中の思想家を分析した論考である。この2010年代になぜ、そんな昔の論考を読むべきなのか。

 2008年にサブプライム金融商品の不具合に端を発したリーマンショック事件が起こった。この事件については、あれやこれやの論考が出されたり、刑事的責任を追及しようというような動きまで見られた。

 そのときによく語られたのは、「リーマンブラザーズ社員の無能さ」であった。金儲けにひた走り、目先の利益しか見なかったために、リスクを放置した、と。

 しかし私は、彼らリーマン社員の無知さ・無能さが事件の引き金になったわけではないと思っている。おそらく有能で頭がよく天才的なビジネス集団だったのだろうし、その人たちの緻密で合理的な思考の上に出来上がったのがあの金融商品だったのだろうと思う。少なくとも平均的な日本のビジネスマンよりもはるかに有能だっただろう。

 それでもあの事件は起こってしまった。有能さが足りなかったわけではないし、頭のよさが足りなかったわけでもない。

 むしろあの事件は、彼らが合理的かつ有能だったからこそ必然的に嵌ってしまったピットフォールだったのではないか。私はそう思っている。

 吉本隆明は、戦前インテリたちの分析から、この論理的思考のピットフォールを看破した人物だった。だからこそこの論考は、論理重視の現代社会においていまだに重要な指摘になっているのではないかとわたしは思っている。

・「転向」とはなにか

 とりあえず本文の流れを追っていこう。吉本は、戦前・戦中の共産主義者たちが、翼賛体制下の思想弾圧により自らの思想を捨て去った、いわゆる「転向」の分析から出発する。

 一般的には、「転向」の要因は、過酷な取り調べや強制逮捕だとされている。しかし吉本は、転向者が戦後になっても再転向(つまり再び共産主義を掲げること)をしなかったという事象をとりあげ、転向の外的要因を否定する。

 それよりもむしろ彼らは、「内的転向」、つまり自分の中の思想が変化したのだと述べる。

 なぜそのようなことが起こったのか?

 簡単にいうと、自己の「論理」と周りの「現実」との乖離である。彼らは西洋的論理を吸収し、その正義を信じていた。しかし彼らの周りにあるのは、日本的土着文化である。彼らはそれを否定し、無視し、取るに足らないものと認識した。しかし軍国主義天皇主義など襲いかかる日本的土着文化に、彼らがはじめて直面したとき、「論理」と「現実」のギャップを思い知らされるのである。

 

佐野、鍋山は、わが後進インテリゲンチャ(例えば外国文学者)とおなじ水準で、西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリにすぎなかったのではないか、…この田舎インテリが、ギリギリのところまで封建制から追いつめられ、孤立したとき、侮りつくし、離脱したとしんじた日本的な小情況から、ふたたび足をすくわれたということに外ならなかったのではないか(292)

 彼らは「日本的小情況」を取るに足らない、遅れた、野蛮なものものと認識していた。しかし物事はそう単純なものではなかった。

 

このとき生まれる盲点は、理にあわぬ、つまらないものとしてみえた日本的な情況が、それなりに自足したものとして存在するものだという認識によって示される(301)

 その結果、彼らは天皇主義や仏教の道へ入ることになる。圧倒的な「現実」の前に、自らの「論理」の敗北を悟ったのである。彼ら(転向者)の敗因は、自分の論理に沈殿し、その論理に反する「現実」を無視したことにあった。そして、その「現実」が圧倒的な波となって押し寄せたとき、彼らは「論理の敗北」を認めたのである。

・非転向者

 吉本はこのように転向者を「田舎インテリ」呼ばわりする一方で、小林多喜二をはじめとする非転向者も結局は同じ穴のむじなであると考える。転向者は、「現実」の前に「論理」の敗北を認めたが、非転向者は「現実」を無視し「論理」だけに溺れる道を選んだのである。

 なぜなら非転向者にとって「現実」は必要なかったからである。国家、労働、上部構造、下部構造、彼らに必要だったのはそういう政治用語だけであり、架空の論理世界だけで自給自足できた。つまり彼ら(非転向者)の論理は、そもそも「現実」を見る必要がなかったのである。

 

 日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチスムスによって自己完結することである。

…日本的モデルニスムスによってとらえられた思想は、はじめから現実社会を必要としていなかったのである(303-304)

・中野的転向

 転向者も非転向者も、同じように「現実」と自己論理が乖離していた。その点で吉本は、戦前思想家たちを痛烈に批判する。しかし吉本は最後にある男に希望を託している。

 中野重治は、一般的な転向者と同じように、獄中で共産主義を捨てて「転向宣言」をした。しかし戦争が終わり再び共産主義に回帰した。

 彼も非転向者と同じように「現実」を無視したのだろうか?

 違う。彼は「現実」を直視し、それでも「現実」と戦う決意をしたのだ、と吉本は述べる。このことは彼がのちに出版した自伝的小説「村の家」に端的に表れている。

 共産主義者として逮捕された主人公・勉次は、釈放後、故郷の父親と対峙する。父親が言う。「そんなもの書いて何するんか。…今まで書いたものを生かしたけりゃ筆ア捨ててしまえ。そりゃ何を書いたって駄目なんじゃ」。これに対して勉次は、うなだれるも最後に「よく分かりますが、やはり書いて行きたいと思います」と決意の述べる。

 ここで吉本は、勉次の父親に「日本的現実」を重ね合わせる。

 「村の家」の父親孫蔵に、口先だけで革命論をかきまくり、あげくのはては「小塚原」で刑死するのがこわさに転向する位ならば、はじめから何もしない方がいいのだ、と沈痛な生活者の信念から断言せしめた実体にほかならなかったからである(309-310)

 その生活者としての「現実」に対して、勉次は一度は敗北を認めるも、再びそれと戦う決意をする。

 いいかえれば、日本封建制の優性にたいする屈服を対決すべきその実体をつかみとる契機に転化しているのである(296)

 …中野は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころにきめたのである(313)

 中野は、一度「現実」に敗れることで、「現実」をしっかりと見据えることができた。吉本はこの姿勢を評価する。吉本にとっての理想のインテリとは、「現実」をしっかりと見据えながらも、自己の論理を磨き、理想を求めるところにあった。

 この点は私も同感である。そしてこの吉本の指摘は、2010年代の今でも有効なものであると思う。