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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

生きたことばとはなにか

生きたことばとはなにか

生きた学問は学びを開始させる。

大学院のころ、私の教授がこんなことを言っていた。

学問には生きた学問と死んだ学問がある。それは教壇に立つとすぐわかる。生きた学問は、説明を始めた瞬間から学生の目が輝き出し、我を忘れたように興味の眼差しを向ける。他方、死んだ学問は、説明を始めた瞬間から、ある者は私語をはじめ、ある者はケータイを取り出し、ある者は眠り始める。

こういう尺度はすごく大切なことだと私は思う。

教授の「生きた学問」に惹かれて、人生を変えられたのだから当然かもしれないが…。

ふつう学問をやる上で「門外漢の興味を誘発できるか」という尺度でその学説の「良し悪し」を決めるということはしない。

むしろ「素人には分からないこと・素人を締め出すこと」を高レベルの学問だと捉える人もなかにはいるくらいだ。

たしかに専門性が高くなるほど素人にはとっつきにくくなるのは致し方ない。

それは哲学でも物理学でも数学でも同じだ。

けれど、

専門性という壁を乗り越えて、それでもなお、核となる「問い」の不思議さ・面白さを説明できない学説・学問に未来はない、と私は考えている。

もちろん「門外漢でもわかるくらい簡単な話をする」というわけではもちろんない。

「素人でも簡単にわかる」ものを素人は欲望しない。

「分からない」けれど「私にとって大切なこと」だと感じる。

このとき初めて、学びが開始する。

分からないけれど、私にとって重要な問題であることは分かる」という直観が、「面白さ・不思議さ」の感覚を生み、新しい知見へと門外漢を誘うのである。

実は、ことばも同じじゃないか、と私は思っている。

伝わらないことばってなんだろう

たとえば、

あなたがこれまで聞いてきた「人生の訓示や教訓・アドバイス」をどれだけ覚えているだろうか?

教室で、飲み屋で、式典会場で、会社で。

さまざまなところでたくさんの訓示を聞いてきたことだろう。

しかし少なくとも私は、ひとつも覚えていない。

べつに「人のアドバイスはいっさい受けない」というポリシーがあるわけでもないが、結局なにひとつ覚えていないし、実践してもいない。

そのことについて痛快に語った中島義道のエッセーがある。

引用しよう。これは中島が学科長のときに学内パンフレットに書いた「卒業生へのはなむけの言葉」である。

学生諸君に向けて、新しい進路へのヒントないしアドバイスを書けという編集部からの依頼であるが、じつはとりたてて何もないのである。しばらく生きてみればわかるが、個々人の人生はそれぞれ特殊であり、他人のヒントやアドバイスは何の役にも立たない。とくにこういうところに書き連ねている人生の諸先輩の「きれいごと」は、おみくじほどの役にも立たない。振り返ってみるに、小学校の卒業式以来、厭というこど「はなむけの言葉」を聞いてきたが、すべて忘れてしまった。いましみじみと思うのは、そのすべてが自分にとって何の価値もなかったということ。なぜか? 言葉を発する者が無難で定型的な(たぶん当人も信じていない)言葉を羅列しているだけだからである。そういう言葉は聞く者の身体に突き刺さってこない。だとすると、せめていくぶんでもほんとうのことを書かねばならないわけであるが、私は人生の先輩としてのアドバイスは何ももち合わせておらず、ただ私のようになってもらいたくないだけであるから、こんなことはみんなよくわかっているので、あえて言うまでもない。これで終わりにしてもいいのだけれど、すべての若い人々に一つだけ(アドバイスではなくて)心からの「お願い」。どんな愚かな人生でも、乏しい人生でも、醜い人生でもいい。死なないでもらいたい。生きていてもらいたい。(60-61)

どうだろうか?

少なくとも私には中島が「ほんとうの言葉」を話しているように聞こえる。

「身体に突き刺さる」ほどの重みのあることばに感じる。

(余談だが、中島の生徒のひとりが自殺したことがある)

しかし一体なぜ、このことばが「身体に突き刺さる」のだろうか?

それは、

「分からない」から、だと私は思う。

「死なないでもらいたい。生きていてもらいたい。」ということばを受け取ったとき、私たちは自然と中島のことばの真意を読もうとする。

中島は、あれほど「定型」を否定しながら、それでも「生きていてもらいたい」という「定型的なことば」を用いる。

そこには彼なりの想いや事情が含まれていると感じる。それは何か?

中島は、いっさいのアドバイスを否定しながら、それでも「お願い」という言い訳をしながら、このことを伝えたかった。その動機は何か?

それが、分からない。

なぜなら、簡単にわかるような定型的で無難な言葉ではない、中島の個人的実感が含まれるからだ。

しかし一方で、それはとても「大切なこと」だと感じる。

なぜなら、あれほど定型を嫌う学者がそれでも言わざるを得ないと決意するほどのメッセージだからだ。

分からない、でも大切なこと。

ようやく話が一周した。

私は冒頭で、「学問に大切なことは門外漢の興味を誘発すること」だと述べた。

そしてその本質は、「分からない」ことと「でも大切だと感じる」ことだ。

ことばもこれと同様である。

ことばが真に伝わり、受け手になにかを誘発させるときの条件。

それは「分からない」ことと「でも大切だと感じる」こと、である。

生きたことばとはなにか

しかしこの結論は、議論の土台を作ったにすぎない。

受け手が「分からない」メッセージをつくることは簡単だ。

現に思想系の学者が大量に垂れ流しているメッセージを読めばわかるだろう。

けれど、

「分からない」にも関わらず「それがあなたにとって大切なことだ」というメッセージも同時に含まなければならない。

でなければ受け手には「伝わらない」。

そんなことが可能だろうか?

難しいかもしれない。

しかし、「分からないけど、それが大切だということは分かる」メッセージはありえる。

学問でも、人でも、商品でも、趣味でもいい。なにかに強く興味を惹かれたことがある人ならこのメッセージを受け取ったことがあるはずだ。

「この人の言うことはまるで分からない。しかし私にとってすごく大切なことだと感じる」。

そのようにして人は新しい物事に興味を持ち、新しい世界に飛び込んでいく。

では、この直観はどのようなメカニズムで作動しているのか?

そんなメッセージはいかにして生成できるか?

私の疑問はその点にある。

<参考文献>

中島義道『私の嫌いな10の人びと』