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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

鈴木謙介「カーニヴァル化する社会」


カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)
(2005/05/19)
鈴木 謙介

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・「カーニヴァル(祝祭)」という捉え方

 現代社会を表すキーワードとして「カーニヴァル(祝祭)」という言葉は的を射ている。

 ネット炎上、ワールドカップ限定のナショナリズム劇場型政治、スキャンダルに熱狂するマスコミ。どれも場当たり的で瞬発的に盛り上がり、祭りのあとは嘘のようにみんなそのことを忘れてしまう。そこには一貫性とか発展という言葉はない。私たちの社会は、そんな「祭り」をただ意味もなく繰り返しているだけ社会なのかもしれない。

 本書で問われるのは、このようなカーニヴァル社会がいかに誕生したのか、どのような原理で動いているのか、なぜ発生したのか、という一連の問題群である。

 そのため、このような社会が是か否か、という問題はほとんど問われない。あくまで社会学の範疇なので、現状とその構造的要因が分析されるだけである。もちろん具体的な分析も行われる。本書では、若者のフリーター問題やケータイ依存なんかの具体例が挙げられている。ただ、基本的には高度近代社会の構造分析という「現代」の理論的論考に仕上がっている。

・内容と形式 

 カーニヴァル社会とはどのような社会か。鈴木は、まず現代社会のコミュニケーションのあり方に着目する。

 一般的にコミュニケーションにとって重要なのは、話す中身(内容)である。政治討論であれ、家族会議であれ、議題(内容)がなければ、コミュニケーションは駆動しない。

 しかしその一方で、内容が形骸化したようなコミュニケーションも存在する。それがいわゆる自己目的的コミュニケーションと呼ばれるものである。たとえば女性同士の長話は、大抵のばあい、「盛り上がればなんでもいい」という形式が支配するコミュニケーション空間である。その空間では「盛り上がる」という形式が場を支配し、内容はその形式に沿ってそのつど副次的に選択される。なので無目的で一貫性がない会話がそこでは繰り返される。

 鈴木はそのようなコミュニケーション原理が、現代において社会一般化しているのではないか、と考えている。たとえばネット上のコミュニケーションでは、とくに政治的な一貫性もなく、結論も出ないまま終わっていくものがほとんどである。

 よくネット右翼という言葉が語られるけれど、必ずしもネット言論は右派ばかりではない。朝日は叩かれるけれど、それと同時に北朝鮮拉致被害者も叩かれたりする。彼らに必要なのは、盛り上がれる(叩ける)ネタであり、それが政治的にどのような思想が底流しているか、というのはあまり関係がないのである。

 そのようなコミュニケーション原理はネット内にとどまらない。いまやネット内的コミュニケーション原理は、企業・政治家・論壇も無視するわけにはいかないから、おのずとネットに引きずられていく。そうすると社会一般で「盛り上がる」形式に支配される原理が適応されはじめるのである。

 私たちの生きる社会は、上述してきたような「祭り」を駆動原理にし始めているのではないか、と私は考えている。本書では、そうした祭りのメカニズムについて、様々な事例に分け入りながら明らかにしたい(8)

・データベースによる知性の外部化

 では、なぜネット内コミュニケーションがこのような「盛り上がる形式」が支配する空間と化したのか。鈴木は、この要因を「データベース」に見る。

 データベースとは、ネットワーク内に蓄積された個人情報の総体のことであり、「ページ閲覧履歴」とか「商品購入履歴」とかのデータのことである。

このデータがどのような意味をもつかというと、今まで自分で考えざるを得なかった個人のあれこれを「向こうさん」が代わりに考えてくれるのである。

 たとえば、私が本を買うとき、まず「自分がどんな内容の本を求めているか?」ということを考え、「それらの本がどのような思想的位置やカテゴリーに属するか?」を調べ、「そのカテゴリーの中でどのような人が説得力を持っているか?」ということを選別していく。

 しかし今日では、それらの作業はデータベースが代行してくれる。アマゾンのレコメンド機能は、過去の閲覧履歴から私が買うべき「おすすめ」の本を教えてくれるのである。つまり、「吉本隆明」と「丸山眞男」の思想的差異をいちいち知らなくても本が読めるようになる。

 そういう意味でデータベースは、人間の「知性」を外部化してくれる。人間は、残された「感性」に基づいて物事を判断すればいいようになるのである。このデータベースの「知性」と人間の「感性」のやりとりのことを「データベースと自己の往復運動」と鈴木は呼ぶ。

 

私たちの生は、「知性」と「感性」の間を行ったり来たりしながら、どうにかこうにか支えられているようなものだ。ただしここで重要なのは、その「知性」の出所が、外部に設置されたデータベースのアルゴリズムに置き換わっている点である(96)

・ギデンズの再帰的近代とバウマンの液状化社会

 しかし、データベースによって「知性」が外部化されるにしても、なぜそのような技術が浸透したのか。

 鈴木はその要因を大きな歴史的社会変動にみている。そもそも近代社会(18世紀くらいから)は、反省することを原理に発展してきた。ビジネスではPDCAなんて呼ばれるけれど、自分の行いを振り返り、概念的に思考し、次の行為に活かすというプロセスは、近代社会の制度にビルトインされたものである。

 そのような行いを社会的に推奨することによって、村落的・封建的な社会は、都市的・民主的な社会へと変容していった。「反省」するためには、外部になんらかの基準が設置されていなくてはならない。戦後民主主義マルクス主義といった一貫した基準があってはじめて「反省」は可能になる。

 しかし現代は、その反省するための基準すらも「反省」される時代である。反省する仕方を反省し、その反省の仕方も反省し、その反省の仕方も…。このように現代とは、この不断の反省メカニズムに巻き込まれている再帰的近代なのである。

 再帰的近代では、人は外部の基準に準拠できなくなる。「私はマルクス主義的観点から、このような行為を選択する」だとか「僕は自由主義者だからこう振舞う」といった行為の選択ができなくなる。そうすると「私は私である」という無根拠な断定によって感性的に振舞うほかなくなってしまう。外部的基準に従えないのだから、内部的感性に依拠するしかないのだ。

 そのような社会変動的要因こそが、データベースによる知性の外部化を進展させた。再帰的社会による「感性」の前景化と「データベースと自己の往復運動」は、このようにして新たな現代人の自己像を誕生させるのである。

 

そのため、人は一方で「私は私」という無根拠な断定を可能にする一瞬の盛り上がり=再帰的なカーニヴァルを志向しつつ、他方で、データベースに対してパラノイアックな問い合わせを行うのだった。

 それにしてもなぜ、「感性」の前景化や「一瞬の盛り上がり」志向が、「カーニヴァル(祭り)」という集団現象を生むのだろうか。

 この点に関して、鈴木はバウマンの液状化社会を参照している。「液状化社会」とは、集団から個人化(自由化)する現代社会の様相を比喩的に表現したものだ。村落的共同体から自由化した近代的個人は、それでも会社や家族など何らかの集団に組み込まれていた。

 しかし現代になると、その集団からも自由に参入・離脱できるようになる。離婚率の上昇や転職ブームを見てみると分かり易いだろう。バウマンはそのような社会を、アトム(原子)化した個人が自由に動き回る液体型の社会と喩えたのである。

 液状化した社会において、帰属感を得る方法は「カーニヴァル」しかない。もはや一貫した組織も、一貫した思想もない現代において、なにか固定的なものに帰属感を得ることはできない。だから「同じカーニヴァルを体感している」という仲間意識のみが帰属感の源泉となりえるのである。

 

カーニヴァル型の近代とは、アドホックな共同性への選択の契機となる、感性の水準へのフックを駆動原理とするような近代だと、さしあたり見なすことができるだろう(138)

 まとめると、再帰的近代化という社会変動によって「データベースと自己の往復運動」という自己意識メカニズムが誕生し、人間の「感性」の前景化が起こる。その「感性」が帰属感を求めるとき、それが「カーニヴァル(祭り)」という様相をとるのである。

 鈴木はこのようなカーニヴァル型社会に対して、両義的な評価を下している。

 一方でそれは、社会における理性の放棄である。反省的に前進する「私」から、そのつど瞬間的にリアクションする「私」への変容は、理性にとって何の生産性もない。社会を善き方へ改善するという意志も放棄することになる。

 しかし他方で、「瞬間的に盛り上がる自己」は、内的には幸福でもある。その瞬間の自身の快不快に素直に従う主体であるから、わざわざ苦痛を背負うということはしない。

 しかしここで、そのどちらが正しいか? という問いかけはあまり意味のないものである。なぜなら「理性的社会を復権するか、感性的社会を肯定するか」という問いかけ自体が理性の側からのものであり、感性的主体の耳には届かないからだ。市民的主体の再構築とか地域社会の再生みたいなスローガンが意味をなさないのも同じである。覆水盆に帰らず。なってしまったものは仕方ないのである。