2000年という年のほんのわずかな予感 ーーゼロ年代とはなにかシリーズ①
2000年という年
1999年の大晦日。かすかな期待感を抱きながら寝床についたことを覚えている。
2000年問題、世界中のコンピュータが誤作動を起こし、社会が動乱し、慌てふためく。テレビは通常放送から緊急ニュースに切り替わり、人々が一斉にざわめき立つ。2000年問題への警鐘を鳴らすニュース番組を眺めながら、そんな空想をしていた。誰しもが少年のころに抱く、平和な空想世界。
もちろんそんな事態が起こらないことは、分かっていた。明日も今日と同じ日がつづく。明後日も、明々後日も、そして10年後も…。
年が明けた2000年1月1日。空想したことは何一つ起こらなかった。ニュースでは、世界は平常通り運用されていることが伝えられた。テレビも、通常放送が通常どおりに放送されていた。
2000年という年は、おおむねこんな年だった。
数字上の特別感のわりに、際立った特徴のない年。もっといえば、2000年〜2009年のいわゆるゼロ年代も同じことかもしれない。遠く離れた未来の地点から見返したとき、そこには記憶に値するような出来事はほとんどない。影の薄いクラスメイトのような存在感。ああ、そんなやつもいたな…。それで話題は終わる。
けれど日常には、日常なりの起伏がある。
サザン・オールスターズは『TSUNAMI』を歌っていたし(私も買った)、ソニーはプレイステーション2が発売したし(私は買ってない)、町田康は『きれぎれ』で芥川賞を獲った(あとになって読んだ)。ユニクロはフリースを売っていたし(私も買った)、テレビドラマでは『Beautiful Life』も『池袋ウエストゲートパーク』も『トリック』もあった(ぜんぶ観た)。
決してなにもなかったわけじゃない。そこには、何か、があったと思う。そう。何か、が。人生に直接影響するようなものではないし、社会を変えるものでもない。全共闘運動や、機動戦士ガンダムや、バブル景気や、地下鉄サリン事件のような、懐古的に語り継ぐほどのことは何一つない。でも、ゼロ年代にもたしかに「何か」があった。そう思う。でも、一体それはどんなものだろう。
決して訪れることはないけれど、わずかに期待する未来
2000年といえば、「キレる17歳」が話題になった。
神戸の酒鬼薔薇事件は97年、西鉄バスジャック事件が00年。どちらも犯人は1982年生まれだった。当時私は中学生だったけれど、多少は自分の事として話を聞いていた。もちろん特定の年代になにかしらの暴力的性向があるとも思えなかったけれど、そうなるもの無理はないように思えた。
つまり、ある種の環境に置かれることで、心のタガが外れてしまう。理性も社会規範もどうでもよくなってしまう。たまたま、私は「そういう環境」に生まれ落ちなかったけれど、もし「そういう環境」に生まれ落ちたとしたら、私も同じことをしただろう。なぜかそういう確信があった。
あの17歳たちは、私だったかもしれない。
そう思うと、底のない恐怖心が込みあげてくる。けれど、どうしてもそんな風に思えてならない。彼らは、私が1999年の大晦日に抱いたあのディストピアを実現しようとしたのかもしれない。あの平和な空想世界を。2000年の正月に裏切られ、なかった事にされた未来を、彼らは自分たちの手で成し遂げようとした。
私と彼らのあいだにどれほどの違いがあるだろう。その違いの少なさを痛感すると、本当に恐ろしい。
もう一つ、2000年で印象に残っていることがある。記憶の彼方にある人も多いと思うけれど、2000年に「加藤・山崎の乱」というドタバタ政治劇があった。当時の森内閣の不信任決議に、自民党の加藤紘一を含む数十人のメンバーが賛成に回ろうとした事件だ。結局、党内の圧力に屈するかたちでなし崩しになり、失敗した。
テレビでは、失敗を悟りうつむいたままの加藤紘一と、その脇で大将を鼓舞しようとする谷垣禎一の様子が繰り返し放送されていた。当人にとっては真剣だったかもしれないけれど、どこか演技的でぎこちない感じがした。半分本気、半分演技だったのかもしれない。けれど女性のセックスと同じで、そればかりは本人にしかわからない。もしかしたら本人も分かってないのかもしれない。
私にとっての「政治」との出会いは、この政治劇だった。それ以来「政治」とは、5本に1本くらい面白いものがあるエンターテインメント・コンテンツだと認識している。
小泉純一郎や橋下徹が出てくるのはもう少し先だが、このころは、政治は、わりと面白かった。何かが変わるかもしれない、というかすかな予感があった。たとえそれが三文芝居のエンターテインメントであったとしても。
何かが起こるかもしれない予感。そんな未来が訪れることはないと分かっているけれど、かすかに、胸の奥底で、感じる期待。
2000年という年を暴力的にまとめてしまうと、そういう年だったのではないか。いつの時代でも、空想・妄想・予感の類はある。けれど、それは1960年代のものとも、1980年代のものとの違う。2000年代ならではの予感の感じ方。そんな予感のあり方が始まった年、2000年。
こうの史代原作・片渕須直監督『この世界の片隅に』③
まさか一つの作品に3つも文章を投稿するとは思ってなかったが、書き足りないのでもう少し書いてみたい。
一つ目の文章では、この作品の語りきれない感動を書いた。
二つ目の文章では、正面切ってテーマについて言及してみた。
三つ目の文章では、その作品の捉え方について少し語ってみたい。
そう思ったきっかけは、NHK「クローズアップ現代」の『この世界の片隅に』特集を見たからだ。能年玲奈の問題もあり、民法ではほとんど広報的なことができないなかで、NHKが正面切って長尺の特集を組んだのは、ほんとうに素晴らしいと思う。
けれどちょっと「捉え方」に違和感をもった。
この番組では、視聴者の感想や、スタジオのコメンテーターがこの作品の魅力について語るのだが、その語り方が次のような感じだった。
(視聴者の感想)
昔あった戦争で亡くなられた方たちって
本当に今の私と何も変わらない命を持った人たちだったんだな
(コメンテーター)
70年以上前の戦争の話なのに地続きに感じる。
たぶんこれが、この作品の正統的・王道的な感想なのだと思うし、原作者も監督も、それを目指していたのだと思う。主人公すずさんは、「かわいそうな人間」でも、「愚かな人間」でも、「歴史上の人間」でもない。わたしたちと同じように生き、生活を営んでいた、と。
たしかに作品をみていると、「すずさん」は本当にわたしたちと同じように生きているように感じる。
でも、やっぱり違うと思う。
我々は「すずさん」ではない。あれほど朗らかに、そして懸命に日常を生きることはできない。もっと汚く、もっと弱く、もっと醜い。たしかに原作の「すずさん」にも、現実の過酷さに負けて幻想に浸る弱さがあるし、夫の過去に嫉妬することもある。それでも、あれほどに現実を豊かに生き抜く生活力を持ち合わせていない。第一、あんな朗らかな笑顔を現実でそうそう見ない。
たしかにあの作品には圧倒的な「リアリティ」があり、それぞれの人物や生活がまるで現実のように息づいている。しかしそれは「リアル」ではない。現実そのものではない。あくまでも、とてつもなく「ありえそうな理想」なのである。だからこそそこにカタルシスがある。
ほんとうに「リアル」な戦中の田舎の生活を見たければ、わざわざ物語にする必要もないし、劇場用アニメ作品にする必要もない。文献と資料を漁ればいい。それこそがまさに「リアル」である。しかし、「すずさん」という「ありえそうな理想」を構築することによって、はじめてわたしたちの心の深い部分が揺り動かされ、衝撃的な感動を味わうことができる。
あくまでも「すずさん」は、架空のヒーローである。現代人が無意識のうちに「こうなりたい」と願う理想像である。そのことは理解してから特集番組をつくったほうがいいのではないか。
「戦時中の日常をリアルに描いた」とか言われると、単なる自然主義リアリズムっぽく聞こえる。そんなもんじゃないでしょ。解説するときはもう少し言葉を選びましょうよ、NHK。
こうの史代原作・片渕須直監督『この世界の片隅に』②
前回、テーマについての話をほとんどしなかったので、少しテーマについて掘り下げてみたい。こういう作品のテーマ分析をするのは、ある意味「野暮」な作業ではあるけれど。
この作品のテーマを見つけるには、映画よりも原作のほうがわかりやすい。原作漫画のほうが丹念にテーマの説明をしているし、ひとつひとつの出来事をうまくテーマと接続させている。映画のほうは時間の都合もあるのだろうけれど、そこらへんは「諦めて」いるような印象を受けた。それは「白木リン」のエピソードをまるまる削除したところからも伺える。賛否はあるだろうが、その編集は「苦渋の決断」だったのではないかと推測する。
『この世界』のテーマ自体は、それほど難しいものではない。物語の中盤、すずと周作が橋の上で会話するシーンにそのまま表れている。終盤の「悲劇」の前の静かで幸せな会話だ。
すず: 夢から覚めるとでも思うんじゃろうか
周作: 夢?
すず:住む町も仕事も苗字も変わって まだ困ることだらけじゃが
ほいでも周作さんに親切にして貰うて お友達もできて
今 覚めたら面白うない
今のうちがほんまのうちならええ思うんです。
周作: ……なるほどのう
過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな
すずさん あんたを選んだんはわしにとって多分最良の現実じゃ
「過ぎた事 選ばんかった道」とは、呉にきたすずにとっての「広島」であり、周作にとっての「白木リン」であり、嫁いだすずにとっての「水原くん」であり、径子ねえさんにとっての「時計屋の家族」であり、終盤のすずさんにとっての「右手」ある。
みなが、それぞれ「過ぎた事 選ばんかった道」に想い馳せる。とくに終盤以降の怒涛の「悲劇」を目の前に、みな「選ばんかった道」へ逃げ込もうとする。しかしそれは「覚めた夢」、もうどうすることもできない。一度した選択は、もう取り返しがつかない。ならばいま、ここの現実を「最良の現実」として受け止め、生きるしかない。
それがこの作品のテーマである。
もちろんわかってもらえたかと思うけれど、このテーマは「戦争」ではない。「戦争」はあくまでも舞台設定であり、問題意識はとても現代的だと思う。
アンソニーギデンズが「脱埋め込み化」とよび、イアンハッキングが「偶然の飼いならし」とよんだ現代人の特徴とは、「リスク計算」だった。現代人は、「リスク計算」に駆り立てられている。保険屋も、健康番組も、経済ニュースのコメンテーターも、みなが「リスク」を警鐘し、個人にリスクを計算するよう強いる。「あなたにはこれこれの選択肢があり、それぞれの選択肢をよく吟味して選びなさい。さもなくば…」。
すると、誰も彼もが言いようもない不安に陥る。もちろん未来のリスクに対する不安もある。しかしもっと深刻で根深い不安は、「今、ここにいる私の選択は正しかったか」というものだ。◯◯塾に通い、◯◯大学に入り、◯◯会社に就職し、◯◯と結婚する。そうした自分自身を構成する過去の選択が本当に正しかったか?最良であったか?
こうした個人の実存にかかわる不安は「リスク計算」的な態度が染み付いた人間ほど陥りやすい。「まあ、いっか」という楽天的な諦観をえることができない。
ひと昔前の人であれば、「地震」は天から降ってくる災難だった。けれど今ではそれは「起こり得るリスク」である。だから私たちは「地震」に対してなんの準備をせずに亡くなった人を、素直に100%純粋に悲しむことができない。「リスク」である以上、回避の選択があったのではないか、という疑念がどうしても頭をよぎってしまう。「過ぎた事、選ばんかった道」をどうしても意識してしまうのだ。
そういう意味で、『この世界』のテーマは、現代のアンチテーゼとして機能している。「過ぎた事 選ばんかった道」ではなく、現実を最良のものとして生き抜くすずさんの姿に、現代人の不安を投影して、おもわず感動してしまう。どんな現実をも、幸せな日常に変換してしまうすずさんの「生きる力」に感服してしまう。
原作と映画の話にもどろう。映画で泣く泣くカットしたのは、こうしたテーマを駆動させるエレメントだった。この作品のテーマである「現実肯定」を描くには、2通りのやり方がある。ひとつは、「現実を肯定する様子を描くこと」。これはすずさんの日常描写にあわられる。少ない食料のなか工夫し、物資をやりくりする。モンペをつくったり、楠公飯を炊いたりするシーンだ。
そしてもうひとつが、「非現実と対比すること」。非現実との対比を鮮やかに見せることで現実を際立たせるやり方だ。それは、日常にたいする「戦争」であったりするわけだが、その核となるエレメントが「白木リン」だった。
先に、周作にとっての非現実が「白木リン」だったと述べたが、彼女はすずにとっての非現実としても描かれている。冒頭の座敷童を「白木リン」っぽい造形で描いていることからもわかるとおり、「白木リン」とは、もうひとりのありえたかもしれない「すず」の投影である。すずは、あたたかい家族のもとに生まれて居場所を与えられ、この世界の片隅で最良のパートナーに見つけてもらえた。しかし、そうではなかったかもしれない。そうではない現実がありえたかもしれない。彼女は、そのことを無意識に知っている。その結晶こそが「白木リン」だった。
そういう意味で、『この世界』を語るためには、「白木リン」の存在は欠かすことができない。それをまるまるカットしてしまったのは、かなり辛い決断だったと思う。現実的な予算やスケジュールを考慮して、「日常描写を丹念に描く」ことに焦点を絞った。まさに「二兎を追うもの一兎もえず」の格言を自分に課したのだろうと思う。
ただし、やってほしかったなあ。と思う。
まあ、「選ばんかった道」をくよくよ考えても仕方ない。
こうの史代原作・片渕須直監督『この世界の片隅に』①
2016年の年末にこの映画をみた。個人的には仕事がありえないほど忙しく、土日含めて深夜までずーと仕事をしていたので、ついつい観るのが遅れてしまった。それに公開前に予告をみて、『ほたるの墓』と『はだしのゲン』を足した作品だと思って、自分のセンサーに引っかからなかったのもある。
好評があちこちから湧き上がってきて、ようやく観たのが年末。
後悔した。ほんとうに後悔した。
なぜもっと早く観なかったのか、なぜもっと早くこの素晴らしさに気づかなかったのか。いつの間にかアンテナの感度が落ちていたことに気づいて、自分自身に愕然とした。「まあ、『ほたるの墓』的な作品ならみなくてもいいや」とタカをくくっていた過去の自分を殴りつけてやりたい。
これは明らかに日本映画史上の歴史に残る大傑作であり、歴史的偉業だ。
正直、この作品と同時代に生まれてほんとうによかった。現代ではもはや小津安二郎の映画を、「過去の名作」としてしか見られず、公開当時の空気感を味わえないのと同じで、たぶん『この世界』も、ある種の空気感が伝わらなくなる時代が来る。けっして作品の素晴らしさが時代を経て磨耗するわけでないけれど、「今」という時代を共有しているからこそわかる『この世界』の魅力は、たぶん数十年たつと分からなくなるだろう。そういう意味で、ほんとうに歴史に立ち会えた瞬間だと思う。
この作品を語るときに難しいのが、いかに「観た鮮度・感動」を言葉にできるか、だ。もちろん「体験」を100%言葉に置換することは不可能だ。それは哲学者に言われなくてもわかっている。しかし、適切な言葉選びと、言葉の文章量、そして適切な話し方を吟味すれば、70%、80%くらいは伝えられるような気がする。そう信じている。
『この世界』でいえば、たとえば「戦争における日常を丹念に描いた作品」という説明がなされることがある。たしかにそのとおりなんだけど、これでは、この作品の「感動・魅力・オリジナリティ」がなにひとつ伝わってこない。しごく凡庸でお説教くさい映画な気がする。
では、もうすこし抽象化したテーマにせまってみてはどうか。この作品は、『ありえたかもしれない過去や未来ではなく、いま・ここを生き抜くことの素晴らしさを描いた』作品である。多少マシになったと思う。でも、違う。やっぱりこれじゃ伝わらない。テーマの説明にはなっているけれど、テーマだけがこの映画の魅力ではない。
では、内容の話を抜きにして語ってみてはどうだろうか。この作品は、『テーマ性、ストーリーライン、作画、動画、音響、声優の演技など、その他、作品を構成するすべての要素が過去最高レベルで融合しあい、奇跡のハーモニーを奏でている前人未到』の作品である。まあ、熱はなんとなく伝わる。でも、これでいいのだろうか、という疑問は拭えない。
もしかしたらこういう説明が一番正しいかもしれない。この作品は、『言葉でどれほど語り尽くしても語れない。とにかく観ろ。なにがなんでも観ろ。一生後悔するぞ』
生涯ランキングー映画編ー
評論編・小説編・アニメ編に続いて、今回は生涯ランキングの映画編。
並べてみて感じるのは、素直に「印象に残った順」に並べると、やっぱり王道が強いということ。尖ったものとか、オリジナルなものも好きなんだけれど、「王道」の王道たる所以のようなものを感じる。
では早速。
生涯ランキングー映画編ー
北野武作品でいえば、私は『HANA-BI』が一番好きだ。もちろん人によっては『ソナチネ』かもしれないし、『座頭市』『アウトレイジ』かもしれない。でも、私にとってのベスト『HANA-BI』。
北野武作品については、よく残虐性がクローズアップされることが多いけれど、正直いってそこまで残虐だとも思わない。もっと狂気に満ちた異常な残虐性を写した作品もあるし、どちらかというと北野作品の残虐性は、ストレートというか、あんまり狂気さは感じない。どちらかというと、臆病な男がやくざな世界で生きるために身につけた「鎧」のような感じがする。
『HANA-BI』に関していうと、そういう「鎧」を纏うことの孤独さや哀愁や無意味さのようなものがにじみ出ていて、すごく胸がつまる。わたしはべつにやくざな人間ではないし、どちらかというと正反対の人生を歩んできたけれど、なんとなく「ああ、そうだよなあ」と共感してしまう。それがすごいいい。
あと、色彩のコントラストも際立っているし、観た人ならわかると思うけれど、あの「最後の一言」もすごく、いい。
これを劇場でみたときは凄く興奮した。劇場からでても、しばらくマトリックス世界にいる気分で、ネオのように過ごしていた。
アニメ『エヴァンゲリオン』のところでも話したけれど、こういう作品は内容とかテーマについて考えても仕方ない。そういうのは所詮、世界観をつくるためのツールにすぎない。だから純粋にあのかっちょいい世界観に入り込んで、それを満喫するに限る、とわたしは思う。
観てる最中に「ものすげーー」と唸った作品。やっぱり凄いよね。密室で人がしゃべっているだけで面白い映画が作れる、というのは神業だと思う。しかもきちんとドラマがあるし、そのドラマが不自然じゃない。
べつにわたしが褒めなくても、世界中の人が褒めているから今更なにもいうことはないけれど、やっぱりこういう超絶技巧をみると思わず感動してしまう。
第7位 ロバート・ゼメキス『バックトゥザフューチャー1・2・3』(1985〜)
シリーズものは、セットでカウントさせてください。やっぱり単独では語れない。
こういう王道エンタメって、意外と評価されにくいけれど、やっぱり凄い。数十年たったあとでも、いまだに世界中の人々の心を掴みつづける作品ってそうそうない。なにも考えずにぼーっと観ていても楽しい。マイケルJフォックス、クリストファーロイドもはまり役だし、脚本も愉快だし。
でも、一番の『バック』の魅力は、小ネタだと思う。ストーリーにあまり関係ないような小ネタが多いし、その一つひとつが面白い。未来の靴とか電子レンジとか、過去の人とちぐなぐな会話するところとか。ああいうのって大事だよね。
変な映画だけど、なぜだか面白い。でもなぜ面白いかよくわからない。いろいろ理由をこじつけようとすることもできるけれど、全部ちがう気がする。そんな映画だと思った。
ただ感じたのは、2つあった。ひとつは、作り手の欲望に忠実なんだなあ、ということ。「ゴジラファンとして俺が見たかったのは、これなんだ!」というファン的欲望が垣間見えた。役者の演技とか、それぞれのカットとか、ゴジラの動きとか。「こういうことがやりたい!」というコンセプトが情熱とともに伝わっているのは、いい。
あともうひとつは、なにか実験をやろうとしているだ、ということ。あのドラマ性を一切排した脚本、不自然なまでに演技を排した棒読み早口セリフ、顔の超アップの連打、理解が追いつかないほどのハイテンポなカット。それらの技法を駆使して生まれる空気感・世界観はどんなものか。そういう実験を、東宝の巨大資本でやりきって、ヒットした。そういう感じがした。
第5位 ジョージ・ルーカス『スターウォーズ4・5・6』(1977〜)
これはもう私の青春なので、入れざるをえない。
『スターウォーズ』に関しても、わたしは内容をみる映画ではなく、世界観を純粋楽しむ映画だと思う。たまに「父親殺し」のストーリーラインを精神分析ばりに分析する人がいるけれど、ああいうのはちょっと虫酸が走る。ダースベイダーかっこいい! チューバッカかわいい! ファルコン号すげー! でいい。それでいいのだ。なにか「内容(ストーリーの奥深さ)」がないといい映画ではない、というような空気感があるけれど、そんなのなくたって面白くなるし、それで映画の価値が下がるわけでない。
こういう名作をもってくるのって照れるけれど、この映画も凄い。見ていると「哀しみ」とも「嬉しさ」とも似つかないよくわかんない独特の感情に陥る。いってしまえば「小津的」な感覚。老夫婦が特に内容もない会話をただとりとめもなくしているだけで、なぜあんな気持ちになるのかわからない。ほんとうにオリジナルな人だと思う。
第3位 フランク・ダラポン『グリーンマイル』(1999)
正直にいって、この映画がそれほど素晴らしいとは思っていない。ましてや小津安二郎よりも上だとは全く思えない。まあもちろんいい映画だとは思うけれど。
つまり、観た時期と、そのときの心理状態で深く印象に残ったということだ。若かったし、ああいう心が洗われるような物語を必要としていた時期だった。だからものすごく泣いたし、なんども見返した。人生にはときにああいう「心が洗われる」映画が必要なんだと思う。
もちろん、ほんとにいい映画ですよ。やっぱりスティーブンキングって偉大です。
これ観たの小学生のときだったと思う。でもいまだに筋とか細部のシーンも覚えているから、よほど記憶に焼きつけられた映画なのだと思う。
この映画で取り上げられている主題って、実は結構身近にあって誰もが感じたことのある感情なんだけど、意外ときちんと取り上げられることが少ない。もちろんその感情とは、嫉妬と憧憬がごちゃまぜになった苦悩。その才能を認めて、羨み、憧れ、尊敬し、才能を見抜ける自分自身を誇らしく思うと同時に、どうしようもなく憎しみ、妬み、自分の無力さを痛感してしまう。そういう心の機微が、モーツアルトの楽曲に乗せて劇的に描き出される。圧巻。
観たことない人は、是非観るべし。ぜったい損しない。
第1位 ジュゼッペ・トルナトーレ『ニューシネマパラダイス』(1989)
何十回みても泣ける。冒頭から泣ける。あの音楽がかかっただけで泣ける。
でも、なんで泣けるのかが意外とわからない。だいたい「泣かしにきた」映画って、「なぜ泣くか」がすぐにわかる。泣いてる最中でもわかる。たとえば、離れ離れの男女がついに心の壁を突き破って、再会すべく走り出す、とか。この映画にそういうわかりやすいカタルシスがあるわけじゃない。もちろんわかりやすいカタルシスもある(最後の再会シーンとか)。でも、ほかのところで泣く理由がよくわからない。主人公の少年が映画を食い入るような目で観てるだけで泣ける。なぜだろう。
終戦直後のイタリアでも、現代の日本でも共通する甘酸っぱい「少年時代」への憧憬なのだろうか。井上陽水の歌でも泣けちゃうしね。
つぎは漫画編にいこうと思います。
生涯ランキングーアニメ編ー
評論編・小説編につづき、つぎはアニメ編。ちょっと気が楽になる。
小説編のランキングを見返してみると、あんがいエンタメっぽいのが少ない。こういうのはいけない。アニメ編は気をとりなおして、欲望のままに書いていこう。
ただ、アニメ編に関しては、あまり語ることがない。いろんな人が散々語っているから、いまさら何を語ることがあろうか。
でも、まあとりあえずいってみよう。
※ちなみにテレビ放送のアニメに限定。劇場版は「映画」だと思うから。
※あと、漫画原作でもわたしが「アニメ」のイメージが強いものはアニメにカウント。
生涯ランキングーアニメ編ー
これ初めてみたとき、けっこう衝撃だった。だって何にも「物語」がないから。いわゆる「日常系」とよばれるものの代表作だけれど、なぜ「物語」もないのに、ずっと見続けられるのかが疑問だった。
まあたしかに女の子は可愛いけど。その女の子がうだうだと日常を過ごしているだけなのに、ずっと見続けられるというのは、ほんとうにアニメっておそろしい。
ちなみに初めてメンバーが演奏するシーンは、なぜだか泣ける。これもなぜだかわからない。有名なんだけど結構不思議な作品だと思う。あと、やっぱり、ごはんはおかずではない。
第9位 P.A.WORKS『SHIROBAKO』(2014)
この生涯ランキングで、最新の2014年。新しいのに、よく入ったね。
これもいってしまえば、可愛い女の子がアニメ作ってるだけなんだけど、いい。それでいい。もしかしたらみゃーもりは女性キャラでいちばん好きかもしれない。
ちなみにオススメのシーンは、第3・4話あたりの「あるぴんはいます」の会議室シーン(たぶんこれを挙げる人は少ない)。何度みても泣けてくる。ああ、アニメつくってる人って、ほんとうにアニメが好きなんだなあと思える。ものを作ることの気持ち良さ、逆にからいえば業のようなものを感じる。「結局俺たち好きなんだから、仕方ないじゃん」みたいな。そういうの好き。
ここにハルヒが入ってくる。やっぱりいいよね、ポニーテール。
いくつになっても男の子は、美少女にひっぱりまわされたいし、異世界に行ってみたいのである。
第7位 シャフト『化物語』(2009)
僕は好きだよ、シャフト演出。やっぱりおしゃれだし、センスあると思う。ああいうほの暗い予兆の静けさって、いいよね。そういう意味では、誰もやったことのない表現を見つけたと思う。
ちなみに好きなのは、「終物語(蛇の撫子のやつ)」の貝木。空港のトイレで自問自答するところとか、ホテルでひとり作戦を練っているシーンとか、かっこいよくてしびれる。
なんどみても泣いてしまう。ラストもいいし、4・5話あたりの戦闘シーンもいい。たぶんこれを作った人は、ほんとうにアニメとか特撮が好きなんだろうと思う。まさにファンがつくったリスペクトアニメ。「おれたちこういうのが心の底から好きなんだけど、お前はどう?」という声が聞こえてきそう。
好きです!
第5位 シャフト『魔法少女まどかマギカ』(2011)
これ見たときは頭を鈍器で殴られたような感じだった気がする。ああ、こんなアニメがありなのか、と思った。絵も音楽もいいよね。萌えだけがアニメではないのだ。
ただ一般人に薦めづらいのが難点。
第4位 JC STAFF『とある魔術の禁書目録』(2008)
夜中にたまたまチャンネルを回していたら、見つけてしまった。たしかそのころはまだあんまり深夜アニメをみていなかったので、けっこう衝撃的だった。おもしろいじゃん!すごいじゃん!
ちなみにおもしろいアニメって、ちょっと緊張感のある仄暗い静けさがある。『魔術』も『化物語』も『まどか』も。まあ『ハルヒ』もそうか。なぜそれがいいのかは分からない。
『とある』の好きな回は、3つ目くらいの御坂がはじめて主役になる回。橋の上のシーンとかいいよね。ベタなんだけど、しっかり泣ける。
第3位 ProductionI.G『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002)
SACのほうね。けっして押井守のほうではない。男の子が好きな要素を全部入れ込んだアニメ。高校生のときに見なくてよかったと思う。あやうく黒歴史できるほどの中二病伝染力がある。
ここで一点してほのぼのアニメ。やさしい、やさしいお話。これもチャンネルを回していてたまたま途中から見て、そのまま泣いてしまった。2話に1話は泣ける。
ただ、泣ける回を考えてみるとレイコさん(亡くなった主人公の祖母)が出てくる回が多い。『仮屋』の話とか。「一度も会ったことのない人とのつながりを感じる」という所作じたいが好きなのかもしれない。
第1位 GAINAX『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)
まあ、それはそうですよ。不動ですよ。
おしゃれでかっこいいアニメの走り。やっぱりすべてがかっこいい。
たまに『エヴァ』の内容についてうんぬん語る人がいる(「自我」がどうとか「神」がどうとか)けれど、たぶん目が節穴なのだと思う。あのアニメに内容なんてものはない。一切ない。
あるのは、雰囲気だけ。いわゆる「哲学」や「宗教」っぽい要素も、すべてかっこいい雰囲気をつくる小道具にすぎない。そのことは理解しておいたほうがいい。
では、まとめ。
第9位 P.A.WORKS『SHIROBAKO』(2014)
第7位 シャフト『化物語』(2009)
第5位 シャフト『魔法少女まどかマギカ』(2011)
第4位 JC STAFF『とある魔術の禁書目録』(2008)
第3位 ProductionI.G『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』(2002)
第1位 GAINAX『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)
生涯ランキングー小説編ー
生涯ランキングー評論編ーにつづき、小説編。
選定基準や注意点は前と同じなので繰り返さない。さっそくやってみよう。
生涯ランキングー小説編ー
第10位 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1977)
正直にいって、1位2位はすぐに決まる。「これしかない」という感じなのだけれど、9位10位が本当に難しい。正直にいって9位10位あたりの作品って無数にある。その中から選ぶのが本当に大変だった。泣く泣く圏外に落ちた作品を思うと夜も眠れない。
そんな中で選んだのが、『電気羊』。なんというかこの読後感はディックにしか出せない。むかし誰かが「心が擦り切れたときは、フィリップ・K・ディックが沁みる」というような話をしていた記憶があるけれど、たしかにそうだと思う。独特のやるせなさと、現実の平衡感覚を失う感じを味わいたいときは、ディックを読めばいいと思う。
こういう一般的な評価が高い名作を挙げるのは忍びないんだけれど、やっぱり挙げざるをえない。正直にいって、ほとんど筋は覚えていない。10年以上前に読んだきり。けれど読んでるあいだの心の動きや感覚は克明に覚えている。
ラテンアメリカ的な乾燥した雰囲気と不可思議な非現実性。ページをめくる手がいっこうに止まらなかった。
第8位 レイモンド・チャンドラー『ロンググッドバイ』(2010)
清水俊二訳の『長いお別れ』でもよかったけれど、個人的な好みとして村上訳で。
なんといってもとにかくかっこいい。マーロウもかっこいいし、文章も最高にかっこいい。「さよならを言うとこは、少しだけ死ぬことだ」とか言ってみたい。バーに入ったらマティーニとか飲んでみたい(お酒ほとんど飲めないけど)。
ああいうセンスのある文章では、チャンドラーはナンバー1だと思う。もちろん気の効いた巧みな文章だけでなく、ふつうも描写もけっこううまいけど。
第7位 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(1982)
高橋源一郎をひとつ入れたかったけど、どれにするか悩んだ。候補としては『優雅で感傷的な日本野球』『ゴーストバスターズ』と本書だった。『優雅』は、まったく意味がわからないけれど、なぜだか繰り返し読みたくなる謎の小説。どうしてかわからないけれど、高橋源一郎は再読率が高い。
正直にいって『さようなら』は、他の高橋作品にくらべると再読率が低い。でも、やっぱり読んだときのインパクトを考えると、この作品を選ばざるをえなかった。
たぶん大学1、2年生のころだったと思うけれど、1ページ目を読んで「なんだこれ」と呆れた。ふざけやがって、と思った。それでも先に進みたくなって、どんどん読んでいった。やさしい、小説だった。
小学生か中学生のときに読んだと思う。そのころほとんど本を読まない人間だったけれど、「薄い本だし大丈夫だろう」と思って読み始めた記憶がある。わたしは読んだ本の内容をすぐに忘れてしまうダメ人間だが、この本はかなり覚えている。
漁に出るまえに少年と野球の話をしてるところとか、獲った魚をサメに食われまいと棍棒で格闘するところとか、ほとんど骨だけの魚をひきづって港に戻るシーンとか。
これだけ鮮明に記憶に焼きつく文章ってそうそうない。単純な評価でいえば『老人と海』は、ヘミングウェイ作品のなかでも、正直あまり「良い」とは思わない。けっこうほかの短編のほうが胸を掴むものが多い。けれど、やっぱり『老人』よりも心に残ってはいない。そういう作品って、貴重だと思う。
本当にこの作品を挙げたくなかった。名作中の名作を推すのは、気が引ける。でも、正直に「圧倒された」のだから仕方ない。正直にいって、あの頃『カラマーゾフ』の持つ深みやテーマをどれほど理解できていたかは分からない。たぶんほとんど理解できてなかったと思う。それでも、なぜだか「圧倒する」ほどの力のある作品。
第4位 絲山秋子『イッツオンリートーク』(2003)
名作のあとに、こういう短編が入るとほっとする。絲山秋子のデビュー作。内容に関しては前にどこかで書いたので繰り返さないけれど、小説の「世界の眺め方」がとても気に入った。自分自身の体験なのだけれど、どこか他人事のように遠くから眺める。こういう感覚っていいな、と大学の図書館で感心した二十歳の夏だった。
第3位 カート・ヴォネガット『スローターハウス5』(1987)
たぶんカート・ヴォネガットの本はたいてい読んだけれど、『スローター』は始めに読んだ作品だった。たぶん『タイタンの妖女』を最初に読んでいれば、また違ったのかもしれない。
なんだろう、この人の感性。やさしいのに、やるせない。親切なのに、残酷なまでに乾ききっている。とくに『スローター』はそういう感性が全面にでている作品だと思う。読んだ人ならわかるけれど「そういうものだ」のリフレインが、この作品全体の異様な雰囲気を生み出している。救いようもない話だけれど、この世界がそうなのだから仕方がない。そういうものだ。
第2位 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1997)
いさぎよくここで村上春樹を。そして、王道中の王道『ねじまき鳥クロニクル』を。
やっぱりいいものはいい。正直にいって、「村上春樹」という言葉自体に政治性があり、党派を問われているような感覚があって気軽に名前を口にすることもできないけれど、いいものはいい。というようなことを書いていると、もう一度読みたくなってきた。
『ねじまき』といえば、「パート3」は必要だったのか問題がある。「パート1・2」でやめておけばよかったのではないか? という主張がけっこう根強い。たしかにそれも分からないではないけれど、やっぱり一読者としては、「パート3」があってよかった。どんな結末であれ、きちんと決着がつくというのはけっこう大事なことだと思う。かっこう。
そういえば、『スローター』もそうだけれど、世界に翻弄されるボンクラ男という物語、けっこう好きなのかな。。
第1位 J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』(1961)
この作品の第1位にまったく迷いがなかった。何度も何度も読み返す作品。すべてがいい。文体も超絶ミラクルだし、人物も愛すべき存在だし、テーマもいいし、ラストの終わり方も最高。なんど読んでも感動できる。素晴らしい。人類の宝だと思う。
この本を読んだ時、たぶんフラニーと同じ年齢くらいだったと思う(もうすこし若かったかもしれない)。60年代アメリカでも、00年代の日本でも、若者はいつもおなじような悩みを抱えている。そういう悩みをカラフルで鮮やかに、そして鮮明に描き切った青春小説の金字塔だと思う。
あとたまにあの小説を「宗教っぽい」という人がいるのだけれど、どうしてだろう。たしかに宗教の話をしているけれど、それはテーマとはまったく関係ない。ただの話を組み立てるツールにすぎないと思うんだけれど、どうなんだろう。
たしかにラストの「ふとっちょおばさん」のシーンは、宗教の天啓とか悟りっぽい感じもする。わたしとしてはあんまり関係ないと思うけれど。
ということで、生涯ランキング小説編のまとめ。
第10位 フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1977)
第8位 チャンドラー『ロンググッドバイ』(2010)
第7位 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(1982)
第4位 絲山秋子『イッツオンリートーク』(2003)
第3位 カート・ヴォネガット『スローターハウス5』(1987)
第2位 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1997)
第1位 J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』(1961)
まだまだやることはある。漫画編とか映画編とかアニメ編とかテレビドラマ編とか。たいへんだ。