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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

國分功一郎「ドゥルーズの哲学原理」

ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)ドゥルーズの哲学原理 (岩波現代全書)
(2013/06/19)
國分 功一郎

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・これは解説本の神様じゃないか

 思想家とか学者とかの難しい本を読むとき、わたしは素直に解説本から読むようにしている。

 難しい本を無理やり読んでも理解に時間がかかるだけだし、それならまず解説本を知ったうえで、本人に挑戦するほうが効率的だと思うからである。

 しかし、世の中の解説本を読むとわかるけれど、たいてい「本書」と変わらないくらい難しかったりする。これは本当にやめてほしい。

 たいていの思想家の本は、ある程度の背景知識を有している読者を想定して書かれている。だから「本書」が難しいのは仕方ないと思う。

 けれど解説書くらいは、一般人にもわかるように書いてほしい。

 たしかに「学会内のしがらみ」みたいなのがあって、あんまり「分かりやすい本」にすると業界人からの評判が悪くなったりすることがある。しかし解説書なんだからまともに解説してくれないとこちらも困る。

 例を挙げると『現代思想の冒険者たちシリーズ(とくにロランバルト!)』とか。

 しかしこの本は、いくたある解説書のなかでは、飛びぬけて分かりやすい。

 「分かりやすい」というのは、「平易な言葉づかい」とか「話が単純」みたいなことではなく、「言ってる内容は難しいはずなのに、論理展開が明快で、きっちり整理されているからすっと理解できてしまう」ということである。

 こういう文章が書ける人はほんとうに稀だと思う。

 だからこそ、そういう人に出会うととても嬉しくなる。なんだか自分が賢くなったような気がするから。

・失敗を目指すことは可能か?

 ただひとつだけ、引っかかった箇所があった。

 國分によるとドゥルーズは、『思考が強制されるという出会いの偶然性に賭けていた』(263)。どういうことかというと、『人間がものを考えることなどめったにない。…ただ時折、ショックを受けてやむをえず、仕方なく、ものを考える』(90-91)からだ。

 確かにそうだと思う。

 わたしたちは「考えている」ようで実際、日常生活であまり「考える」ことがない。唯一考えるのは「なにか」があったとき、つまりわたしたちが「考える」のは、「偶然的な出来事によって思考が強制される」ときだけである。

 ドゥルーズはその事実から「主体性」を2つに分類することを提案する。

 まず第一の主体性は、知覚→思考→行動の一連のプロセスが自動的に進む運動のことである。たとえば、道を歩いていて「貧しい人の姿を見る(知覚)」→「助けなければならないと思う(思考)」→「ボランティアをする(行動)」の流れのことだ。

 この第一の主体性は、いわばAという知覚をするとBという行動をする、という風にあらかじめパターンが決まっている自動的な運動のことを言う。

 ドゥルーズが重視するのは、これとは違う第二の主体性だ。

 第二の主体性は、偶然的な出来事によって、「知覚→行動」プロセスに隔たりが生じることで発生する運動のことだ。

 ドゥルーズはこれについて次のような例を挙げている。

 アイリーンは、知り合いの女性の代わりに工場に働きに行くことになる。そこでアイリーンは、工場に向かう労働者たちの群れ、工場の爆音、巨大な鉄の塊に驚愕し、卒倒しそうになる。

 彼女は、自分の体験をうまく消化できずに一晩を過ごす。そして次の日、友人に「まるで囚人たちをみているようでした」と自身の考えを語る。

 彼女が出した結論(行動)は、第一の主体性の運動とは真逆のものだ。

 第一の主体性は、なかば自動化された「刺激→反応」のプロセスだったが、アイリーンの結論は、そうしたプロセスが「失敗」することによって、はじめて発生する主体性の現われである

 ドゥルーズは、真の思考(主体性)とはアイリーンが経験したような第二の主体性である、と考えている。なぜならもし第一の主体性しか存在しないならば、「人間」や「社会」はまったく新しい思考を創造できない、ということになる。真に創造的で発生的な思考とは、「偶然の出会い」によって強制される思考なのである。

 そのことを國分は、次のようにまとめる。

 あらかじめもっていた企てによって発揮される主体性(第一の主体性)は、物事を既存の知覚の体制に沿って再認するにすぎず、少しも新しさをもたらさない。物事の変更につながらない。既存の知覚の体制を破壊するような知覚との出会いこそが、<物質に付け加わる主体性>(第二の主体性)をもたらす。(113)

 ここまではわたしも大賛成である。

 しかし國分は、このドゥルーズの主張には重大な欠点があるという。

 どういうことか?

  

 第二の主体性は、偶然的出会いによって一連のプロセスが「失敗」することによって発動するのだった。この点について國分はこのように語る。

 

 しかし、失敗を目指すことはできない。失敗は目指した途端、失敗ではなくなるからである。そして、この問題点は、そのまま思考の理論にも跳ね返るだろう。思考は、出会いによって強制されて初めて生まれる。したがって、思考することを目指すことはできない。…期待通りのものに出会えたなら、それは出会いではない。(114)

 「失敗することで生まれる主体性」は、目指すことができない。つまり、そのような受動的主体性は、現状を記述しただけであって、実践的にはまったく役に立たない主張である、ということだ。

 國分は、このような論理よってドゥルーズ哲学の実践的価値を(いったん)否定してしまう。

 しかし本当に「失敗は目指せない」のだろうか?

 「第二の主体性」は、自ら生み出すことができないのだろうか? 

・偶然に自らを投げ入れる若者

 見田宗介の『まなざしの地獄』という本がある。

 そこでは「上京」することに異常なこだわりを見せる若者の話が出てくる。

 見田が正しく分析しているように、彼の上京の目的は、「東京にいって成功すること」ではなく、「自らを変えること」だった。

 切実さこそ違うものの、一昔前に流行った「自分探しのためにインドを放浪する若者」と原理的には同じだ。

 彼らは「自分を変えたい」と思って、旅に出たり、居を変えたりする。

 そのとき彼らが目指しているものはなにか?

 それは失敗でも成功でもいいから、なにか「自分を変える」きっかけを与えてくれる偶然的な出来事ではないだろうか。

 だからこそ彼らは、できるだけ無目的で放浪することを選ぶ。いわば、偶然的世界に自らを投企(投げ入れる)という賭けをするのである。

 それはもちろん大抵の場合、失敗する。

 しかしほんの一握りの人たちは、そこから「なにか」と出会い、思考を開始する。その思考はもちろんアイリーンのような第二の主体性に基づくものだ。

 

 目的を定めないこと、偶然に身を任せること。そのような賭博的な人生選択によって、人は「第二の主体性」を自ら志向することができるのではないか。