宮台真司「終わりなき日常を生きろ」
終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫) (1998/03) 宮台 真司 商品詳細を見る |
・1995年以降の閉塞感
日本の社会分析家にとって、1995年はただの暦上の一年ではない重要な意味を持っている。彼らは95年以前と以降では、なにかが決定的に異なっていると感じている。時代の風が変わり、社会のメカニズムそのものが変容したのだと。
もちろん、それを「考えすぎだ」と一蹴することもできる。「変わったと決めつけるから、変わったように見えるだけで、『現実』はなにも変わっちゃいない」と。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしどちらか分からないのならば、とりあえず「変わった」と主張する人たちに耳を傾けてもいいんじゃないか。
続きを読むウルリヒベック「危険社会」
危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス) (1998/10) ウルリヒ ベック 商品詳細を見る |
・現代の見取り図
この本の社会分析における価値は、マルクスの『資本論』のそれに匹敵するとわたしは思っている。『資本論』は、1867年に公刊されてから1970年くらいまで、その「現状分析」的価値を保っていた。もちろん「基礎理論」としての価値や、その後の思想的発展への寄与に対する価値はいまだに保っているが。
ベックの『危険社会』は、そのくらいのスパンで有効性を持ちえる「現状分析書」だと思う。この本は、1986年に公刊されたが、約30年経った今のほうがよりベックが予見した「危険社会」に近づいているのだ。
ウルリヒベックは、最初に「リスク」という言葉を社会科学の領域に引っ張り込んだ人であり、「再帰性」という流行語を広めた立役者でもある。現代の社会学は、まさにベックを基準として動いているといっても過言ではない。
続きを読む村上春樹「ねじまき鳥クロニクル1・2・3」
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫) (1997/09/30) 村上 春樹 商品詳細を見る |
・独特の重み
さきに白状しておくと、春樹作品において「ねじまき鳥」は私の中の最高得点である。というのも、本書は春樹作品の中でも異質的な「独特の重み」があり、それが私にクリーンヒットしたからだ。
初期のような「シニカルで洒落のきいた都会的青年の独りごと」と、後期のような「同一主題の大量生産的くり返し」のあいだに挟まれて、本書は異質な光を放っている。
その「独特の重み」を言語化して説明する能力はまだ私の中にない。でもいずれしてみたいと思っている。今回はその予備段階として「なぜ村上春樹は、暴力を主題化させるようになったか?」ということについて考えてみたい。
続きを読むユルゲン・ハーバーマス「公共性の構造転換」
公共性の構造転換―市民社会の一カテゴリーについての探究 (1994/06) ユルゲン ハーバーマス 商品詳細を見る |
・ハーバーマスがやりたかったこと
「ハーバーマスについて知りたいんですけど、何を読めばいいですか?」という質問をたまに受ける。たしかにハーバーマスは何か重大なことを言っているような気がするけれど、それが何か分かりにくい。そこでまず、ハーバーマスの根幹的な問題意識を概観したい、と思うのは自然なことだと思う。
この問いの回答にはいくつかのパターンがある。①「『コミュニケーション的行為の理論』を読みなさい」。これはたしかにハーバーマスの集大成的な大著であるが、いかんせん長いし分かりにくい。②「ハーバーマスの解説書を読みなさい」。解説書はたしかに重要だけれど、できれば本人を読んだほうが本質的な理解が得られる。
わたしは迷わず③「『公共性の構造転換』を読みなさい」という。なぜならほとんど背景的知識なしに読めるし、ハーバーマス的問題意識がわかり易く書かれているから。たしかに本書は、彼の博士論文がメインとなっていて、まだ「コミュニケーション」に主眼を置いていない時期に書かれたものである。
しかしハーバーマス理解において最も大切な問いは、「そもそもなぜ彼はコミュニケーションに着目したか?」ということであり、本書はその問いについて十分な理解が得られるのだ。
続きを読む内田樹「下流志向」
下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫) (2009/07/15) 内田 樹 商品詳細を見る |
・内田樹のポジショニング
文系アカデミシャンの「内田樹」への態度はたいてい二つのうちのどちらかである。無視か罵倒か。
たしかに彼の文章には、論証というものがほとんどない。客観的な証拠なしに断定することも多いし、論理の運び方もアクロバティックすぎて、隙がありすぎる。
学術的な厳密さを大切にし、禁欲的に真理を追究しようとする文系学者にとってみれば、彼は「タレントさん」であって学者ではない。
わたしもその意見には同感である。しかしそのような禁欲的学者だって心の奥底では、「厳密性とか学問的位置づけとか気にせずに、自分の好きなことを好きなように論じてみたい」と思っている。気の向くままに書いてそれで生活できればいいな、と願っている。
そういう人にとってみれば、内田樹という人間はなんとも憎たらしい人間である。論証もなしに適当なことを書いてるのに、出せば売れるドル箱作家だからだ。
でも少なくともこれだけは言える。世間には「そういう人」の需要がある。一見アカデミックな匂いをさせつつも、論証とか気にせず、アクロバティックな論理を進める人。おそらく内田樹はそういう需要にジャストフィットしたのだと思う。
続きを読むカート・ヴォネガット・ジュニア「タイタンの妖女」
タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF) (2009/02/25) カート・ヴォネガット・ジュニア 商品詳細を見る |
・カート・ヴォネガットという人
文章を読んでいると、その後ろ側にいる人(作者)の人となりが透けて見えてくるような文章が好きだ。それはなにも小説に限らず、人文書でも学術論文でもそういうことがある。読んでいるうちに、その人の思考や志向や嗜好が、ゆらゆらと立ち現れてきて、自分と一体化していくような感覚。
最近、大学生の論文を読む機会が多いのだけれど、そういう意味でとても楽しい。正直に言って、調べ物は不十分だし、考えも浅い。けれど彼らの興味とその根源をたどっていくのは実に面白い経験である。
カート・ヴォネガットを読むこともそのような経験のひとつだ。彼の小説はたいてい荒唐無稽なSFで、ただのSFよりも現実離れしている。しかし読んでいると自然に「アメリカの地方都市に住む心優しいおじさん」の姿が浮かび上がってくる。そういうSFって少ない。
続きを読むデイヴィッド・ライアン「監視社会」
監視社会 (2002/11) デイヴィッド ライアン 商品詳細を見る |
・「監視社会」論の意味
ここ最近、現代社会学の周辺では「監視社会」という言葉がブームになっている。もちろんこの分野をフォローしていない人にとっては全く馴染みないものかもしれないけれど、近年やたらと局地的頻出ワードになっている。いっときの「再帰性」ブームには及ばないけれど。
なぜ社会学者や思想家たちが「監視社会」をそれほど注視するのだろう。正直わたしはずっと疑問だった。一応軽く議論の概要は知っていたつもりだったけれど、それでも「監視社会」がそれほど重要なテーマだとは思えなかった。
「監視カメラが増えたって別にいいじゃないか、そのほうが安全だし」「企業が個人情報を収集しようが別にいいじゃないか、マーケティングが進んでよりよい商品ができるわけだし」。なぜ社会学者たちはそこまで「監視」にこだわるのか。「ジョージ・オーウェル的ビッグブラザー」なんてフィクションの世界である。そう思っていた。
そこで「監視社会論」の本家本元、議論をするには絶対避けて通れないライアンの『監視社会』を精読してみた。
続きを読む