SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

J・D・サリンジャー「フラニーとゾーイー」


フラニーとゾーイー (新潮文庫)フラニーとゾーイー (新潮文庫)
(1976/05/04)
サリンジャー

商品詳細を見る

・「フラニーとゾーイー」の立ち位置

 サリンジャー作品において「フラニーとゾーイー」は、あまり恵まれた立場ではない。「ライ麦」はもはや不動の地位を築いているし、有名どころが嫌いな人にとってはきっちり「ナインストーリーズ」という名作が用意されている。だからサリンジャーっぽさ(シニカルで繊細な若者)を好きな人は「ライ麦」に、超絶文章技巧を感受したい人は「ナイン」に、という風にうまく棲み分けがなされているのである。

 その点「フラニーとゾーイー」の立ち位置は微妙である。まったく無名の短編というわけではないし、かといって有名どころの仲間入りもできない。宙ぶらりんな立ち位置にいる作品なのである。

 

 しかしそれでもこの「フラニーとゾーイー」は、サリンジャー作品において異質な光を放っている。なぜなら、サリンジャー的命題(シニカルで繊細な若者がいかに生きる意味をみつけるか?)に対して彼が真正面から問いを差し出しているからである。「ナイン」においてこれは断片的な描写としてしか描かれなかったし、「ライ麦」に関しては、「ライ麦畑で子供をキャッチすること」は何らかの形で実現されることなく、ホールデン少年の地獄めぐりは結局失敗に終わってしまった。それに比べて「フラニーとゾーイー」では一応、この問題に決着が付けられているのだ。

・あらすじ

 この本は、長めの短編が2つ連作になっている。

 一つ目の「フラニー」は、アメリカ中部の大学に通う女の子フラニーの物語である。物語というほどのストーリーはないが、俗なものを嫌いながらも繊細で傷つきやすい心情がみずみずしい文体で描写される。フラニーは、幼少期から天才一家の末っ子として宗教や思想の英才教育を受け、そのため周囲はすべて俗っぽいインチキに映ってしまう。そうした世の中のインチキに嫌気が差し、彼女は若さゆえの神経過敏でしだいに精神的に病んでしまう。

 二つ目の「ゾーイー」は、前編の数日後、フラニーの兄ゾーイーが主人公になる。ゾーイーは、傷つき病んだ妹をどうにか救い出そうとする。世界を否定し密教的に「キリスト」にのみ救いを見出そうとするフラニーに対して、ゾーイーは彼一流の饒舌な語りでフラニーの説得を試みる。

・シニカルな人間がいかに生きるかという問題

 このフラニーは、ほぼ「ライ麦」のホールデン君と同型だと思ってもよい。世の中の矛盾をシニカルな視点から嫌悪するが、自己に関しては明確な準拠ができないでいる。フラニーは「キリスト」に、ホールデンは「ライ麦畑の管理人」に救いを見出そうとするが、どちらも曖昧で夢想的なものに留まっている。そのため、明確な自己を現実社会のなかで確立させることなく、どちらも神経症を患うことになる。

 フラニー=ホールデンの持つ悩みは、かなり修辞的に誇張されているとはいえ、しごく現代的なものである。シニカルな目線でメタ的な立場から世界の矛盾をつくという行為は、2ちゃんねるでも見ればそこらじゅうに溢れかえっている。それにネット上だけじゃなくとも、「当たり前を疑う」ということはもはや現代を生きる作法である。

 そう考えてみると、多かれ少なかれ現代人はみなフラニーである、という暴論もあながち間違っていないだろう。もはや現代において、何の懐疑もなく「ベタ」に何かを信じながら生きることは難しいのである。

 しかし、世界に対してシニカルな態度を取ることは、明晰さを得る反面、自己の基盤を立ち上げることができない危険に陥る。そもそも世界なんて矛盾だらけなのだから、それらをすべて否定していては自分の拠り所すらなくなってしまう。生きる意味(自分の拠り所)なく生きることに、人は耐えられないし、シニカルに生きることはその「生きる意味」を破壊してしまうのである。

 だからこそシニカルな人間は、安易に「超越的なもの」に頼ろうとしてしまう。高学歴エリートはオウム真理教にひっかかったし、2ちゃんねらーナショナリズムに陥るし、フラニーは「キリスト」に救いを求めた。シニカルなはずの人間が、最もベタで無批判な盲信に陥ってしまう。ニーチェは、キリスト教批判から「超人」になることを薦めたけれど、「超人」は頑強な精神的タフさがあるからこそ可能なのであって、弱い人間がシニカルに生きることは難しいのである。

 シニカルな人間が、生きる意味を失わずに生活することは、いかに可能か?

 シニカルで弱い人間が、「超越的なもの」に頼らずに生きることは、いかに可能か?

 フラニーとゾーイーの二人が戦った問題は、まさにこの問題だったし、ホールデンが数日間の地獄旅のなかで求めようとしたものこの答えだった。そして現代人の多くが今も直面しているのも、このサリンジャー的命題なのである。

 このサリンジャー的命題に対して、ゾーイーが用意した(亡き長兄シーモアによって与えられた)答えは、みずみずしく新鮮で素敵な答えだった。ラスト数ページで示されるこの天啓に、私は頭を打たれた。決してこの「答え」で現代人の問題が解決されるわけではないけれど、現代人の多くにとって、これが一時的な救いにはなり得るのではないかと思う。