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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

東浩紀・大澤真幸「自由を考える」

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)
(2003/05/01)
東 浩紀、大澤 真幸 他

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・「自由」な時代は、本当に自由か?

 おそらく歴史的にみても、現代よりも「自由」な時代は存在しない。

 強権的な君主によって虐げられるわけでもないし、生まれながらに人生のレールが決まっている、ということもそうそうない。人は自由に生き方を選択できるし、その選択に対する社会からの圧力も弱体化してきている。

 しかし問題は、このような「自由」な時代にもかかわらず、人々の実感としてそれほど「自由」さを感じていないということにある。

 つまり現代社会は、一見「自由」なのに、なぜか「不自由さ」や「閉塞感」や「不能感」といったものを感覚せざるをえない。

 これはいったいどういうことか?

 この「自由さ」と「不自由さ」の共存は、いかに説明することができるか?

 売れっ子の社会評論家2人の共通課題は、おおむねこのような感じである。

ポストモダンと自由

 それではもう少しだけ彼らの「共通認識」を掘り下げていこう。

 「現代はいかなる時代か?」という現状分析的問いに、2人はそれぞれの似たような言葉で説明している。

 東の場合、「大きな物語の失墜」という言葉で表現する。

 「大きな物語」は、ごくごく簡単にいえば、社会の共通基盤的な価値観のことで、「キリスト教」とか「科学合理性」とか、個々の価値観(「嘘はいけない」「効率的なのがいい」など)の根底を流れる基底的な価値観のことである。

 東は、現代社会においてこのような「大きな物語」の効力が弱体化しつつある、という風に考えている。

 大澤の場合、同じようなことを「第三者の審級の撤退」という言葉で表現する。

 「第三者の審級」とは、規範や意味などの妥当性を最終的に保証してくれる存在のことである。厳密には「大きな物語」と違う部分もあるが、ここではほぼ同じものとして話が進んでいる。

 そしてこのような両者の認識に対して、彼らはこのような疑問を抱いている。

 

 現代社会において、第三者の審級の効力なり、大きな物語の魅力なりが、衰えている、という点に関して、僕と東さんは共通の認識をもっている。そのうえで、問いです。このとき、同時に、一見、こうした基本的前提―第三者の審級の撤退―に反するように見えることも起きている。…この不思議なねじれは、どう説明されるのか。(29)

 つまり「大きな物語」や「第三者の審級」がなくなったのにも関わらず、なぜだか「それに反する現象」が見受けられるということである。 

 これを自由の問題と絡めて言うとこうなる。

 規範とか画一的価値観は、自由を制限する源になる。たとえばジェンダー規範によってライフスタイルが制限されたり。

 しかし現代では、一方において自由の領域が拡大しつつ、また他方で人々は「不自由さ」を感覚している。これは、たとえば大澤が強調するような「原理主義の台頭」の問題、そして東が強調するような「ネットワーク的管理とセキュリティの強化」の問題が挙げられる。

 このような現象に対していったいどのような包括的記述が可能か?

 おおむね二人の課題はこのようなところにある。

環境管理型権力

 しかし大澤の「原理主義の台頭」はある程度イメージしやすいけれど、東の「ネットワーク的管理とセキュリティの強化」という問題は、少しイメージがしにくいかもしれない。

 いったい「ネットワーク的なセキュリティ強化」のなにが問題なのか?

 端的にいうと、それが「人間的」ではないから、である。

 自由を制限する権力にはいくつかの種類があるけれど、たいていの場合、被権力者に「自由が制限された」という自覚がある。「法的に」自由を制限する。「規範的に」自由を制限する。または、「市場的に(つまりお金の有無によって)」自由を制限することもできる。

 しかし近年登場しつつあるのは、環境を変更することによって人の行動を制限する、という方法である。

 たとえばマクドナルドが客の回転率を上げたいとき、「椅子を硬くする」という環境の管理によって人をコントロールする。

 「ネットワーク的な管理によるセキュリティの強化」もこのような環境を制限することによって、人の自由を制限しようとする。

 こういう自由の制限の仕方は、そもそも「自由が制限された」と感じることなく自由を制限することができる。いわば、動物と同じレベルでの管理が可能になる、ということだ。

 いわずもがな「大きな物語」や「第三者の審級」は、規範的に自由を制限している。

 そして、これらが失墜したあとに「自由」を制限するのが、この環境管理型権力なのである。

 しかしこの環境管理型権力は、「自由を制限している」という実感なきままに「自由を制限する」。つまり一方において(実感上)「自由」だが、他方において(実質上)「不自由」という「自由と不自由の共存」を可能にするのである。

 しかし問題はさらに根深い。

 この環境管理型権力は、「自由」という概念そのものを抹消してしまうのだ。

 おそらく、「自由」とは、まず最初にそれが奪われているという感覚があって、その反対物として想定される概念なのではないでしょうか。だから、そのような感覚がない状態で、自由の定義を積極的に行おうとしても矛盾が出てくる。そして、…ポストモダン社会の環境管理型権力は、自由そのものを増やす減らすとかではなくて、端的に「自由が奪われている」という感覚そのものを極小にするように働いている。だからこそ、私たちは、そこで、自由があるのかないのかもよくわからない状態に放置されてしまう。(237-238)

 「大きな物語の失墜」「第三者の審級の撤退」という現代的状況は、「自由」を促進すると同時に、「自由」そのものが抹消されてしまうことになる。

 なぜならば、「自由」とは、その対概念たる「規範や画一化」といった近代的概念なしには成り立たないからである

 現代における不能感や閉塞感は、このように根深い問題をはらんでいるのだ。