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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

「萎え」のはなし

11月5日

長くこのブログを放置してきたが、今日から少し続けてみようと思う。

できるだけ毎日書き続けようと思う。毎日書き続けることで、なにかが突破口のようなものが見えればいいのだけれど。

 

最近ひしひしとある種の「萎え」のような感覚を抱くようになった。よくよく思い出してみると、学生のころから頻繁に感じていたのだが、近年になってまたその感覚を強く感じるようになった。

「萎え」と表現してみたが、これがぴったりくる表現だとは思っていない。けれど私の手元にある言葉のどれを当てはめてみても、なかなかうまく当てはまる言葉が見当たらない。倦怠、不安、退屈、飽き、焦燥。どれもどこか言い得ているようで、まったく言い得ていない。しいていえば「萎え」が一番近いかと思ってこの表現を使っている。

じつは大学院に行っていたころ、この感覚を人文・社会科学的に研究して、修士論文を書いた。ずいぶん前の話だ。そのころは「萎え」とは呼んでいなかった。たしか「偶然性の縮減」と呼んでいたと思う。

難しそうな言葉を使っているが、簡単なことだ。たとえばサッカーの日本代表戦をテレビで観たとしよう。もちろん日本が勝つかどうかわからない。緊迫した場面になるとハラハラするし、一喜一憂する。ゴールを決めれば歓喜し、決められれば落胆する。

しかし同じ試合を、録画してもう一度観たとしよう。今度は結果をすべて知っている状態だ。もちろん同じ感覚では観られない。歓喜も、落胆も、それほど大きくない(というか多くの人にとってはゼロだろう)。

ごく当たり前の話で、初見にくらべて、同じものを二度目に観たとき、気持ちは「萎え」る。それはなぜかというと、観ている出来事に(主観的な)偶然性が含まれているだ。ボールがどこに飛んでいくか、誰がどう蹴るか、ゴールを決められるか。これらは偶然に委ねられている。しかし2回目に観た時、そこには一切の偶然性がない。すでに結果が分かっている出来事、つまり必然の出来事だからだ。わたしたちが何かに一喜一憂したり、希望を抱いたり、落胆したり、夢を見たりするのは、そこに「偶然」が入る余地があるからだ。目の前の出来事から偶然がなくなってしまった瞬間に、人は「萎え」るのだ。

 

修士論文では、この事実から現代社会を分析してみた。つまり社会そのものが「萎え」ているのだ、と。

たとえば1度目の東京五輪の時代。つまり高度経済成長で日本が沸いていた時代。その時代を評して「皆が希望を信じていた時代」というような表現がなされることがある。映画「ALWEYS三丁目の夕日」で描かれるような世界観だ。その時代に希望が持てたのはなぜか。今は貧乏だが、将来豊かになることが分かっていたから? いや違う。豊かになることが確定的に分かっているのだとしたら、粛々と計画通りに豊かになるだけだ。その時代にある種の興奮的な希望が伴っていたのは、「未来がわからなかった」からだ。未来がわからなかったからこそ、その不明瞭な部分に夢や希望を投影することができたのだ。

人はたとえポジティブな未来であっても、確定的に分かっている出来事には興奮しない。たとえば日本代表が圧倒的勝利を飾った試合の録画を想像してみよう。その試合が喜ばしいことは間違いないが、2度目、3度目の観せられては興奮はどんどん逓減していく。期待感に胸を膨らませ、状況に一喜一憂するためには、「未来が分からない」ことが必須条件なのだ。

そういう意味でいえば、今日の時代において、未来の不明瞭さはますます縮減しつつある。もちろん「未来が分からない」というのは動かしようもない事実だが、状況証拠を積み上げて、「なんとなく分かってしまう」ことがある。

難しいことではない。明日も太陽が東から昇るように、明日も私たちの人生は通常通りに進行する。それは確定的ではないものの、ほぼ確信に近いとさえいえる。さらに近年のインターネットの日常化によって、「明日」だけでなく「そこそこ先の将来」まで、「なんとなく分かってしまう」という時代が進行している。一体どういうことか。

たとえばミュージシャンを目指している若者がいたとしよう。もちろん今も昔も、ミュージシャンとして成功を収めるのはたった一握りだ。しかし今にくらべて情報が限られていた時代は、「そうした夢半ばで諦めた人たち」はほとんど見えなかった。もちろん多少は目にすることもあっただろうだろし、伝聞的に忠告を与える人もいただろう。しかし現在では、実際にそういう人たちを大量に知ることができる。つながることができる。自分と同じような実力で、自分と同じような努力をしている人が、どれくらい夢を諦めているか、どのような将来をたどるか。確率として、どれくらい成功できるか。いわゆる「サンプル数」に事欠かずに、自分がどういう将来をたどるか「なんとなく分かってしまう」のだ。

そのような現象はいたるところで確認することができる。たとえば就職活動。その昔は「金の卵」などと称され、「果ては医者か大臣か」などと期待を抱かれる時代は、もうない。学歴や能力や努力などによって、確率的に将来の就職先(のランク)が「なんとなくわかってしまう」のだ。

わたしたちがいる社会は、そういう社会だ。情報を得ることによって、どこまでも「萎え」ていく。未来が確率的に「なんとなく分かってしまう」。まるで一度観た試合をもう一度見せられているように。

 

修士論文の話をするのにずいぶんと長くなってしまった。論文を書いているとき、もちろん私自身もその「萎え」を感じていた。だからこそ書いた。そして、今またその「萎え」を感じている。未来がなんとなく見えてしまっているような気分。さて、どうしたものか。