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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

松岡正剛「知の編集術」

知の編集術 (講談社現代新書)知の編集術 (講談社現代新書)
(2000/01/20)
松岡 正剛

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・よくわからないおじさん

 ある程度の読書家であれば、松岡正剛という名に聞き覚えくらいあるだろう。ちょくちょく本も出しているし、ネットで書評もしている。昔は雑誌の編集者だったらしいが、今は、なにやら学校を立ち上げたりしているそうだ。

 しかし、この人ほどよく分からない人はいないんじゃないかと思う。

 この人は、一体なにもので、何を成し遂げ、何を目指しているのか?

 外面的な情報をどれだけ集めても、そういう肝心なところは、これまでまったく分からなかった。それで一念発起して、彼の新書を買って読んでみた。しかし彼の著書を読んでみても、結局、肝心なところは分からずじまいだった。

 それは決して、彼の文章が難解であるという意味ではない。むしろ平易で分かりやすい。

 それにも関わらず、「彼が何を伝えようとしているのか」という要の部分がどうしても分からないのである。それはいったいなぜなのか?

・編集という概念

 まず本書の概略を説明しておこう。おそらく本書を究極的に要約するとこのようになる。

①我々は人間は日常のあらゆる局面で「編集」を行っている。

②そして、現代ではとくに「編集」が重要な時代になる。

③なので、個々の具体的事例から「編集」の技法を紹介する。

 以上である。

 言わずもがな本書では、「編集」という独自の概念が決定的に重要になる。まずこれが分からないと話にならない。

 だが、これが結構ややこしい。概念自体はすぐに理解できるのだが、それを概念化することの実効性がよく分からないのである。

 とりあえず「編集」とはなにか、ということを説明しておこう。

 松岡は決定的な定義を示していないが、おそらく編集とは、情報になんらかの処理を加えて新たな文脈(意味)を生み出すことである

 「なんらかの処理」とは、要約したり、別の情報をつけ加えたり、順番を組み替えたり、連想したり、言い換えたりすることである。

 これによって情報は、あらたな文脈(意味)を持つ。たとえば「リンゴ」という情報に、「ニュートン」という別の情報をつけ加えると、万有引力の発見に関するエピソードがそこに立ち現れる。「量子力学」と「サイコロ賭博」を同時に並べると、そこには「偶然」とか「不確実性」などのワードが浮かび上がるだろう。このような情報処理法を「編集」という。

 これは人間行為のあらゆるところで見受けられると松岡はいう。

 

 本来、編集という行為は誰もがやっていることなのである。きのう一日のことをちょっと思い出すときも編集をしているし、主婦が今晩の献立を考えながらスーパーで買い物をしているときも、子供が初めて教えられたゲームに熱中するときも編集はおこっている。法律も巧みな編集構造の上に成立しているのだし、スポーツのルールも編集的にできている。日常会話ですら編集的なのだ。(254)

 たしかに情報(電子的な意味だけじゃなく)を処理するというのは、人間活動の基盤的な行為である。というよりも「思考」そのものである。

 しかし「編集」では、特に情報間の関係性を探り出すことがもっとも重要になる。なぜなら「新しい文脈を生み出す」とは、常に情報間の新しい関係性を生み出すということだからだ。

 編集でいちばん大事なことは、さまざまな事実や事態や現象を別々に放っておかないで、それらの「あいだ」にひそむ関係を発見することにある。そしてこれらをじっくりつなげていくことにある。(46)

・概念化する意義

 「編集」という概念の説明はこれで以上である。

 しかしこれでもまだよくわからない。なにが分からないかといえば、この概念を概念化するメリットがよく分からないのである。

 概念化にとって最も大切なのは、その概念を創る「以前」と「以後」の視界の明瞭さがどれくらい違うか、どれくらい明瞭になったか、というところである。

 例えをだそう。

 フロイトが「無意識」という概念を創出したのは、それを措定しないと、神経症患者がなぜ症状を発症したのかという説明がつかないからである。つまりある事象を説明するのに「無意識」という概念を使わないと困るから、それを概念化したのである。

 また、ブルデューの「ハビトゥス」という概念は、主体と構造の関係性のなかに「身体」という次元をつけ加えるという意義を持っていた。これも「ハビトゥス」という概念を創らないと、主体―構造の関係がうまく説明できないからである。

 このように概念化には、まず必要性があり、概念を創出し、これまで説明できなかったものが説明できる、という手順を踏む。これは別に概念に限らず、道具とか商品とかサービスもみんな同じである。

 どういう利点があるか分からない商品は、気持ちが悪い。

 翻って、松岡の「編集」という概念はどうだろうか?

 この概念を創る必要性はなにか? この概念を創ることでなにが見えるようになったのか?

 少なくともこの著書のなかでは、そこが明記されていなかった。正直、なくても別に困らない概念であるように私には思えたのである。

 そしてその当たりが、「彼が何を伝えようとしているのか分からない」決定的な原因なのではないだろうか。