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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

大澤真幸「思考術」


思考術 (河出ブックス)思考術 (河出ブックス)
(2013/12/12)
大澤 真幸

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有意味な読書をするためには

 人文・社会科学系の学問に興味を持つものならば知らない人はいないだろう大澤真幸が「思考術」なる本を出した。

 ただ本書は、「思考術」というよりも「読書術」といったほうが正確だと私は思う。もっと正確にいえば、「本をもとに考えるとはどういうことか?」という問題が実践的に書かれている。すなわち「私(大澤)は、こういう風に本を読んでこんなことを考えてますよ」という実例紹介だ。

 多くの人にとって、これまで読んできた本を人生の中に有機的に組み込めていると感じることは少ないと思う。たいていの読んだ本は、忘れさられ、後の人生に役立つことはない。せっせとマルクス資本論』を読んでみても、無理やりプルースト失われた時を求めて』を読んでみても、時間がたてばあらすじすら忘れ去られてしまうのがオチであろう。大著を読んでもそういうことがある。いわんや普段の読書ならば尚さら、忘れ去られ、無意味化することのほうが多いと思う。

 では、いったいどのようにすれば人生にとって有意味な読書をすることができるだろうか?

 もちろん読書は必ず有意味である必要はない。けれど、どうせ読むのであれば、有意味な読書をしたいと思う。それはいかにして可能か?

・自分の問題として読む

 本書は、そのような問題に回答を与えてくれているように思う。

 彼は、具体的に「読んで考える現場」を本書で提示しているのだが、その領域はかなり多彩だ。

社会科学編真木悠介『気流の鳴る音』『時間の比較社会学』、マルクス資本論』、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』、エルンスト・カントーロヴィチ『王の二つの身体』、ウェーバープロ倫

文学編夏目漱石『こころ』、ドストエフスキー罪と罰』、赤坂真理『東京プリズン』、イアン・マーキュアン『贖罪』、フィリップ・クローデル『ブロディックの報告書』

自然科学編:吉田洋一『零の発見』、春日真人『100年の難問はなぜ解けたのか』、大栗博司『重力とはなにか』、山本義隆『磁力と重力の発見』、リチャード・ファイマン『光と物質のふしぎな理論』、ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』

 以上が本書で取り上げられた本だ。まだ少しだけ言及された本もあわせるともっと数がいく。

 大澤は、これらの本を「時間」「罪」「神」のテーマに分けて論じている。

 そしてなにより面白いのは、これだけの多彩なテーマの本を論じつつ、その内容はすべて「大澤真幸の話」なのである。

 「大澤真幸の話」とは、つまり彼の研究テーマ、「第三者の審級」の話である。彼は、デビューしたときから一貫してこの話をしている。つまり人間社会の共同主観的な規範の源泉、たとえば「神」とか「父」とか「王」が、主体の意識や行為をいかに規定しているか、という問題である。

 そして上にあげたすべての本が、彼の問題と有機的に関連づけながら論じられるのである。もちろん自然科学書についても。

 彼は別のところでこのように述べている。

 

私がものを書くときに重視するのは、結局答えはこうなるということよりも、読者に疑問の感覚を強くもたせることである。答えよりも問いがはるかに重要である。(32)

 思考にとっても「答え」はそれほど重要ではなく、「問い」のほうがはるかに重要である。疑問の感覚が思考を進める。

 それは思考の補助である読書も同様だろう。まず自分の疑問があり、そのあとに書籍を参照する。そしてまた別の書籍を参照する。そのような読書では、読んだ本はバラバラではなく、有機的な連関を持つ。ちょうど上に挙げた本がすべて「第三者の審級」というテーマにつながるように。

 本書は、そのような読書の相互作用を示唆しているように思える。

・アナロジーという方法

 しかしただ疑問をもって本を読めば、それらの本が有機的につながるというわけではない。

 そこには「つなげ方」がある。その一つがアナロジー(類推)だろう。別に本書でそのように明言しているわけではないが、実際、かなり多様なアナロジーが用いられている。

 余談だが、本書では大澤の専門である「社会科学編」はあまり面白くない。なぜか「文学編」と「自然科学編」の方が面白い。

 それはたぶん、専門外だからこそ突飛な(ある意味、無責任な)アナロジーを繰り出せるからだと思う。それでは、文学編からひとつ例をだそう。

 イアン・マーキュリー『贖罪』には、償いようもない罪を犯した女とその被害を受け、無念のまま死んでいく男が登場する。彼女は、数十年後に小説家となり、その事件を小説にする。その小説はほとんどが真実に基づいているのだが、最後だけ、改ざんを加える。つまり男は生きていて幸せに暮らした、ということにしたのである。

 大澤はこのテキストから「償いの不可能性」を見る。我々は償いきれないような罪を抱えたとき、どうしても「最低限の希望や救いや善さ」を含むように自己を正当化してしまう。仕方がなかったと。

 それは同時に「小説の不可能性」でもある。一片の救いや正当化もできない、不合理な物語を編むことはできない。どんな不幸にも「意味」を付随させるのが小説であるから。すなわち「償いの不可能性」と「小説の不可能性」という2つのテーマを連関させたのがマーキュリーの『贖罪』なのである。

 大澤は、そのことは同時に「神の不可能性」でもある、と述べる。償えないほどの、いかなる正当化もできないほどの罪を抱えることは、神の不在という疑念を呼び起こす。

 大澤は、旧約聖書ヨブ記』からそのアナロジーを導きだしている。ヨブ記では、ヨブがありえないほどの不幸に遭うが、神はそのことについての説明を放棄する。つまり「これこれだからお前は不幸にあった」と神ですら言えなかった(ヨブの不幸を償えなかった)のだ。

 

どちらも、償いに失敗している。「ヨブ記」は宗教的な正典の一部でありながら、神の無能性への暗示を含んだ、いやそれどころか神の不在への暗示すら含んだ、恐るべきテクストである。『贖罪』は、それの現代版である。(178)

 話はまだまだ続いていく。

 「不可能性」というアナロジー(類推)から、『贖罪』と『ヨブ記』を結びつけたように、ここから先も同様のアナロジーで「本と本のあいだ」をどんどん結びつけていく。

 もちろんこのようなアナロジーは、学術的厳密性からいえば、あまり許されるものではない。それでも、大澤はそのように「本と本のあいだ」を結びつけながら、自分のテーマを深化させていくのである。