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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」


プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
(1989/01/17)
マックス ヴェーバー

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ウェーバーの過小評価

 結構昔のことだけれど、京都市図書館にウェーバーの『プロ倫』が置いてなくて愕然としたことがある。

 なんとなく読み返してみたくなって、ふらっと図書館に入った。しかし、書架にも書庫にも置いてなかった。

 「おいおい、『プロ倫』置いてないってどういうことだよ。しょーもないハウツー本は置いてるくせに、なんで社会科学の最重要文献が置いてないんだよ」と憤った。

 けれど向こう側にもいろいろ都合があるんだろうと思って、おとなしくアマゾンで買った。

 この論文は今から100年以上前に書かれた論文だが、いまだ社会学ではもちろん、学術以外の領域でも言及されることが多い。だがしかし、それにも関わらず、あまりウェーバーの含意を汲み取った言及がなされていない。

 正直、「近代資本主義とプロテスタンティズムのあいだに関連性があった」程度の使われ方である。たしかに間違ってはいない。そういう問題を扱っているし、結論もそのとおりである。

 しかし、それだけを取り出して『プロ倫』はこういうものです、と言ってしまうとウェーバーが可哀想である。彼にとって『プロ倫』とは、我々が生きるこの「近代社会」の本質的起源そのものを問うための一部に過ぎない。すなわち、資本主義、合理性、個人主義、そういった近代社会を動かす核となる思想が一体なぜ、どこから生まれてきのかウェーバーはそのことを問うための予備作業として『プロ倫』を書いたのである。

 そういう含意を汲みとりつつ『プロ倫』を読むと、もっと面白くなる。そしてそのことを理解してもらえば、きっと京都市図書館にもこの本を置いてもらえるだろう。

 

・問題意識

 まずは、この本で彼が差し出している問いについて見ていこう。

 1905年、つまりマルクスの『資本論』が書かれて40年ほど経ったとき、ウェーバーはひとつの疑問に行き当たる。

 資本主義というゲームにおける勝ち組プレーヤー、つまり企業家や資本所有者や上層の熟練労働者には、ある共通点があった。それは彼らがみな「プロテスタント的」であったということだ。

 それは個人にとどまらず、国単位で見てもそうだった。

 アメリカやイギリスといったプロテスタント諸国はいちはやく資本主義に順応し、逆にイタリアやドイツといったカソリック諸国は、それに乗り遅れていた。

 しかしプロテスタント(特にカルヴィニズム)は、本来、反世俗的で禁欲的な教義であり、資本主義の精神とは一見相反するものだ。では、なぜ「資本主義の発展」と「プロテスタンティズム」はこのような関連が示されるのだろうか。

 そのことをウェーバーはこのような問い方をしている。

 そうだとすれば、経済的発展の進んでいた国々の人々、しかも、のちに見るように、その内部でもとくに当時経済生活にぴて興隆しつつあった市民的中産階級がピュウリタニズムの、かつてその比をみないほどの専制的支配を受け入れたのは、いったいなぜだったのか。(18-19)

個人主義と組織づくり

 本論の結論自体は、それほど難しいものではない。

 すなわちカルビニズム独特の予定説教義が、「勤労」という世俗的実践に結びついたこと。さらに彼らの禁欲的精神が、資本を浪費するのではなく、再投資する方向へと傾いたこと、が主な原因である。

 しかしそんなことは教科書を読めばいくらでも書いてあるので、違う部分を紹介しよう。

 それは近代社会の原理でもある、個人主義と組織づくりだ。この箇所は『プロ倫』のなかではどちらかというと「無駄話」というか「より道」的に扱われている部分だが、わたしはここが一番面白いと思っている。

 いわずもがな個人主義は、近代社会における最重要テーゼである。近代社会で個人主義をまったく受け入れない社会は存在しない。

 しかし同時に近代は、その以前に比べて組織づくりにも秀でている。時代を経るにしたがって、組織は巨大化し、今日のグローバル企業では何万人もの労働者が同じ組織に属し、機能している。

 この二つを包括し、「近代」というひとつのダイナミズムに還元した起源は一体なにか?

 ウェーバーはこのことについてもプロテスタンティズムの教義との関連性を主張している。

 プロテスタント教義を紐解くとわかるのは、なによりもそのストイックさと厳格さである。欲や感情を否定し、神に真摯に向き合うこと。ウェーバーはこの教義を「悲愴な非人間性をおびる教説」と表現している。

 そのような教説が引き起こした結果は、「個々人の内面的孤独化」である。

 牧師も教会も天使も信用しない。信用できるただ唯一「神」のみであり、「神」のみを信じて世俗を生きる。このような精神は、一切の世俗的な物事を振りほどき、「神と自分の関係」だけが重要な物事になる。

 こうした生活態度がのちの「個人主義」へと結びついていくのである。

 しかしでは一体なぜ、その「個人主義」と「近代的組織づくり」が結びつきえたのか。

 ウェーバープロテスタント独特の「隣人愛」教義にみている。

 「隣人愛」自体は、カソリックでも同じように重要な教義であるが、カルビニズムではその「隣人愛」が独特の色彩を帯びることになる。

 なぜなら世俗を否定し、内面的孤独を生きるカルバン派と「隣人愛」はそもそも一貫しない。信じられるのは「神」のみなのだから、「隣人」は本来、邪魔なだけの存在である。

 そこでカルビニズムでは、「隣人愛」が「神の栄光への奉仕」へと転換するのだ。

 そこで「愛される隣人」とは、具体的な他者ではなくて、非人格的な秩序(コスモス)となる。

 

 「隣人愛」は、――被造物ではなく神の栄光への奉仕でなければならないから――何よりもまずlex naturae(自然法)によってあたえられた職業という任務の遂行のうちに現れるのであり、しかもそのさいに、特有の事象的・非人格的な性格を、つまりわれわれを取り巻く社会的秩序の合理的構成に役立つものという性格を帯びるようになる。(166)

 すなわち、彼らの個人主義は、「組織」や「社会」といった非実在的なものへの奉仕という、一見して真逆の実践に至るのである。

 このようにして近代独特のあの巨大な官僚機構(近代的組織)が出来上がるのである。