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SOCIE

在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

真木田雄介「偶然性の現代社会学」


偶然性の現代社会学: 閉塞するリスク社会偶然性の現代社会学: 閉塞するリスク社会
(2014/03/23)
真木田雄介

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・恐縮ながら…

 電子書籍で本を書いた。

 本を読んだり、日常を生きていて考えたことを一つの文章にしてみた。それゆえこれまでのブログで紹介したようなトピック(「閉塞感」や「偶然性」といったテーマ)と重複する部分がかなりある。そのような知識の断片を集めて、自分の関心に合わせて再配列したのが本書である。

 この本でメインに挑みたかった問題は、現代の閉塞感とよばれる感覚である。90年代以降、日本のみならず先進諸国でいわゆる「閉塞感」という言葉が、社会を表現する語法として使われ始めた。

 たとえばオウム真理教の事件のときにも頻繁にこの言葉が使われていたし、00年代には「希望」が社会分析のキーワードとして使用された(山田昌弘古市憲寿など)が、その裏側には対義語として「閉塞感」という言葉が使用されていた。

 では、この「感覚」は、一体何であるのか。そしてどういうメカニズムで、どういう要因で発生したのか。

 本書を貫く問いは、おおよそこのようなものである。

・偶然性と閉塞感

 この問題に挑むためにどういう手段を講じるか。つまりどのようにして「現代の閉塞感」という捉え難い現象を分析するか。これが問題である。

 たとえば「成長が鈍化した経済」や「長引く不況」や「高齢化社会」といったキーワードは、閉塞感を分析するひとつである。しかし、そのような個別的なキーワードだけでは言い当てられないような気がする。本質を逃しているような気がする。我々はもっと原理的な言葉で、「近代社会」という大きな枠組みのなかで考えなければならないのではないか。

 そこで本書では、「偶然性」という概念を用いることを提案した。

 つまり、現代において「偶然性」の認識がいかに構成されるか、ということを社会学的に考察することを通して、この「閉塞感」という問題に挑もうとしたのである。

 おそらくこれが本書のもっともオリジナルな部分だと思う。

 我々が未来に対して希望を描くのは、未来の偶然性を認識しているからである。

 すなわち「どうなるか分からない」「予見どおりにならないかもしれない」というような未来予見の不能性(偶然性)は、「希望」を投射できる場所なのである。

 なぜなら未来が分からないからこそ、我々は「理想の自分になれるかもしれない」という願望をもつことができるからである。

 見田宗介の『まなざしの地獄』という論考がある。

 そこでは、「上京すること」に異常なまでに執着する少年N・Nの姿が描かれている。

 なぜ彼は「上京すること」にそこまで固執していたのか。それは彼の描く「東京」という場所が、偶然に満ちていたからだ。だからこそ彼は、「上京すること」でこれまでの自分に別れを告げ、生まれ変わることができるかもしれない、と考えたのである。

 つまり未来に対して「偶然性」を認識するほどに、我々は未来に対して希望を持つことができるのだ。 

 だとすれば、現代における「希望の喪失」やその裏返しである「閉塞感」といった現象は、この偶然性の認識の欠落として捉えられるのではないか。

 つまり未来に対する「偶然性」の認識が欠落していき、過剰なまでに「必然性」を感覚してしまう。このような現象として「現代の閉塞感」を捉えることができるのではないか。

 本書の提案はこのようなものである。

 このような仮説を検討するために、本書ではまず「近代社会」と「偶然性」との関係を明らかにした。おもに哲学者イアン・ハッキングの業績を参考にしつつ、アンソニー・ギデンズやウルリヒ・ベックやジークムント・バウマンといった現代社会学の巨人たちにも出演してもらった。

 ついで情報社会あるいはインターネット社会という身近な問題とも絡ませながら論じている。結末部分の一パラグラフだけ引用しておこう。

 

 しかし我々はそのような意味での希望を見出す「場所」を失いつつある。無限に堆積される情報は、自然と未来予見を形作ってしまうのである。そこには希望もなければ絶望もない。ただ「あなたはこのような人生を送るであろう」という客観的な予見が提示されるだけである。まさに閉塞されているかのごとく感覚されるのだ。 

 だいたいこのような趣旨である。

 もう少し詳しく読みたい方は、101円というよく分からない価格であるが、よろしければ買ってください。