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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

内田樹「下流志向」

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)
(2009/07/15)
内田 樹

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内田樹のポジショニング

 文系アカデミシャンの「内田樹」への態度はたいてい二つのうちのどちらかである。無視か罵倒か。

 たしかに彼の文章には、論証というものがほとんどない。客観的な証拠なしに断定することも多いし、論理の運び方もアクロバティックすぎて、隙がありすぎる。

 学術的な厳密さを大切にし、禁欲的に真理を追究しようとする文系学者にとってみれば、彼は「タレントさん」であって学者ではない。

 わたしもその意見には同感である。しかしそのような禁欲的学者だって心の奥底では、「厳密性とか学問的位置づけとか気にせずに、自分の好きなことを好きなように論じてみたい」と思っている。気の向くままに書いてそれで生活できればいいな、と願っている。

 そういう人にとってみれば、内田樹という人間はなんとも憎たらしい人間である。論証もなしに適当なことを書いてるのに、出せば売れるドル箱作家だからだ。

 でも少なくともこれだけは言える。世間には「そういう人」の需要がある。一見アカデミックな匂いをさせつつも、論証とか気にせず、アクロバティックな論理を進める人。おそらく内田樹はそういう需要にジャストフィットしたのだと思う。

・主体的に下流に行きたがる若者たち

 本書もそのような「内田樹が思ったことを書いた本」のひとつである。ずいぶんとアクロバティックな論理展開で、ほとんど雑学的なのだが、それでも結構面白い。

 本書の問いは、近年の若者の学力低下ニートなどの就労意欲の低下はなぜ起こったか、ということである。その問いに対する内田の回答は、およそこのようなものだ。

 学力低下や就労意欲低下は、本人が主体的に下流を志向しているためである。

 どういうことか?

 現代において、教育とは商品である。つまり資本主義に埋め込まれた貨幣と商品の交換制度である。

 もし教育を「商品」と認知したならば、次に行うのは「値切り」である。子供にとって教育とは、不可避な義務であり、その価値も大人にならなければ分からない。価値の分からない商品を買わなければならないとき、わたしたちはまず「値切り」に入る。

 つまりできるだけ教育という商品を安くしたいと願う。そうした願望が、「先生のいうことを聞かない」「強制された以上の勉強はしない」というアクションを呼び起こす。つまり「この商品にはそれほどの価値がない」というアピールをしているのである。

 このようにして生徒は、「わざと」「主体的に」勉強を放棄するようになる。もちろん小学生がこのような思考回路を明確に意識しているとは考えにくい。しかし、このようなことは十分考えられる。

・不快や苦役が価値になる

 このようなことは何も学校だけに限らない。たとえば家庭内でもこのようなアピールが日常的に行われている。

 おそらく皆さんも経験があると思うが、「疲れた・しんどい」というアピールは、ときとして周囲から「慰めやいたわり」を得ることができる。

 お父さんは仕事がしんどいことを全身でアピールし、「自分が家産に貢献していること」を周囲に分からせようとする。お母さんは家事がしんどいことを全身でアピールし、「家事が重労働であり、自分が生活を支えていること」を周囲に分からせようとする。

 そのような論理が支配する場で育つ子供は、おそらくこのように思うだろう。「不快をアピールすることは、自分の社会的ポジショニングを上昇させる」と。

 そのような子どもたちが自分の「論理」をもって、学校にやってくる。「このようなことを勉強して、何の意味があるのか」と教師に問い、不快をアピールする。このようにして学力低下が加速するのである。