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在野の社会学研究者による尽きなく生きることの社会学

赤木智弘「若者を見殺しにする国」


若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か
(2007/10/25)
赤木 智弘

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・希望は、戦争

 もう5、6年前になるけれど、「丸山眞男をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争」という論文が論壇誌に掲載された。「希望は、戦争」というセンセーショナルな文句もあって、賛否両論の議論が巻き起こった。この本は、その論文をメインとして肉付けされたものである。

 私の立場は、「気持ちはわかるけど、」という消極的な肯定である。ただ多くの反対論者のように「戦争はダメ」という反射的な拒否反応を起こしているわけではない。現代の一部の若者が「戦争」を希望していることは事実である。しかし、果たしてその要因は、赤木の言うように経済的な理由だけなのだろうか。もっと根深い問題がそこにあるのではないか。そう感じているからこその消極的肯定である。

・労働者間の不平等の固定化

 とりあえずこの本のあらずじを押さえておこう。この本の中心となる二篇の論文は、「格差社会」と「社会階層の固定化」の両輪が生み出す不平等の構造化が問題にされている。

 日本の左派は、いっけん「労働者の保護」を謳っているようにみえて、その運動は「正規用労働者の保護」しか目指されていなかった。その結果として非正規雇用労働者の排除が進んだ、と赤木は述べる。つまり「労働者(正規雇用)」の利益保護の影では、非正規雇用の軽視と排除が存在していたのである。

 むしろ左派的精神が、労働者の保護を訴えれば訴えるほど、正規雇用者の安定性が増し、その結果として非正規雇用者が社会から締め出されることになったのである。

 そしてポストバブル以降、景気停滞によって労働組合の運動がベア(賃上げ)要求からリストラ阻止に舵を切り替えることで、事態はさらに悪化する。企業側(コストカット)と労働者側(雇用の保護)の思惑が「新規雇用者の減少」で一致することになる。その結果、労働市場からの締め出しによって大量発生したのが派遣社員やアルバイト労働者などの「貧困労働層」であった。

 「持てる者」は自分の地位の安定性を求める。その結果「持たざる者」はますます排除される。そのようにして生まれたのが不平等の固定化であった。これが赤木の議論の基本ラインだ。

 従来の左派的な不平等とは、資本家と労働者のあいだの不平等であった。しかし赤木が問題にするのは、労働者のあいだの不平等、「安定雇用層」と「貧困労働層」とのあいだの不平等なのである。

 

経済格差という現状の背景には、まず「富裕層」が存在し、その下に富裕層にとって安定した役割を与えられている「安定労働層」がいて、さらに安定労働層のための調節弁にされる「貧困労働層」が存在するという構図がある。左派はこの構図を自覚していないのか、結果として安定労働層と貧困労働層間の格差を押し広げてしまっている。

 そのような固定化した不平等は、そう簡単に正せるものではない。フリーターニートに対して「怠けるな、働きなさい」と喝を入れても、労働市場から締め出されたまま固定化している構造がある限り、あまり意味がない。また、その不平等を道徳的に社会へ訴えたとしても、少数派である「貧困労働層」に対する保護はそれほど活発に議論されない。なぜなら民主主義的な多数決の論理によって、多数派たる「安定雇用層」の安定性を壊すような施策は出ないからである。

・戦争による平等

 そしてここからがこの論文の醍醐味である。赤木はこのような構造化した不平等を破壊する方法は「戦争」しかないと考えている。これが「希望は、戦争」というキャッチの所以である。

 確かに赤木のメインの主張は、「労働者間の不平等の固定化」であって「戦争」ではない。いわば「戦争」は議論のおまけのようなものだ。しかし赤木論文がこれほど有名になったのは、このおまけのほうだった。そして私も、このおまけのほうが問題なのだと思っている。では、赤木の議論に戻ろう。

 

 平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

 何ゆえに戦争を希望するか。それは社会を流動させることで、「国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブル」を前にした平等性を確保するためである。「持つ者」と「持たざる者」のあいだの不平等は、戦争というギャンブル状態に身を置くことで解消されるのである。

 

 戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。

 そしてこの感覚は、赤木ひとりの妄言ではなく、ある程度、若者のあいだで世代的に拡がりをもつ感覚なのだと彼は言う。

 

 私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う。

 赤木が「平和」という誰もが肯定する言葉に対してケチをつけるのは、その背後に、安定労働層の特権的な「好ましい生活の安定性」を確保するという思惑が見え隠れするからである。つまり逆からみれば、貧困労働層にとって「平和」とは、排除と貧困の安定性・固定性でしかないのだ。これが赤木の「戦争」についての議論の流れである。

・固定性への嫌悪

 たしかに赤木の論は、単なる「戦争賛美」ではない。メインは社会構造的の問題であり、「戦争」はその問題を際立たせるために使われたものだ。

 しかし赤木や一部の若者が「戦争」を希望をしていることは紛れもない事実である。ただなぜ彼らは「戦争」を希望しているのだろうか。果たして「経済格差」だけで「戦争」を希望するだろうか。

 赤木にとって「固定性・安定性」とは、就労機会の安定性であり、所得階層の固定性のことであった。しかし、それだけが赤木を「戦争」へと駆り立てたのだろうか。生活がままならないと言いつつもしっかり生活できているし、正規雇用はなくても職はある。それに、低所得であるからといって自暴自棄になるほど「人間的な尊厳」がないというわけでもないだろう。

 古市憲寿がいうように、現代日本では、たとえ低所得であっても「それなりに」幸福に暮らしていけるインフラが整っているし、そういう若者も増えてきている。だから「貧困であること」「就労機会がないこと」だけによって暴力的なカタストロフを希望する心性が生み出されるとは考えにくい。

 むしろこれはもっと原理的な問題ではなかろうか。つまり、人間の本質的な部分での「固定性・安定性」への嫌悪が、「貧困」という理由付けに乗っかって、暴力的に発露したのだと。

 「固定性・安定性」というのは、未来への見通しを良くしたいという欲望の現れである。不確定なリスクを排除し、未来の予測可能性を高めるために、人は生活の安定性を求める。

 しかし一方で、人間には未来の予測可能性をあえて拒否したがる欲望も存在する。たとえば、我々が結果をすでに知っているサッカーの試合に興奮しないようなものである。これはスポーツ観戦やゲームにおける興奮が一般的だが、現実の生活にも存在している。「人生なにがあるか分からないから楽しい」というような言明はその一例だろう。

 また、決まりきったルーティーンを嫌悪したがる若者の心性もこれに近い。予測不可能な未来にあえて飛び込むことで得られるスリルを求める心性、これも私たち人間にインプットされた欲望なのである。

 固定性・安定性への嫌悪は、暴力に結びつきやすい。尾崎豊の歌詞は、「大人が決めたレール」「真面目さ」「当たり前の日常」という日常のルーティーン的安定性を破壊したがる若者の心性をよく描写している。そして彼が固定性・安定性を破壊する手段は、「盗んだバイクで走り出す」であったり「校舎の窓ガラスを壊して回る」であったり、常に暴力的な反秩序的行為に結びついている。固定性・安定性への嫌悪は、予測不可能な未来に飛び込むために、しばしば反秩序的であらねばならないのである。

 赤木が求めているカタストロフもこれと同型ではないか。赤木は「安定労働層」を嫌悪しているものの、自分が「安定労働層」の仲間入りをしたいと願っているわけではないし、社会構成員すべてが「安定労働層」になることも求めていない。彼が願っているのは、すべての安定性を破壊するカタストロフなのである。

 こう考えることで、「なぜ赤木が戦争という暴力的カタストロフを求めるのか」という問いの答えが見えてくる。それは貧困が問題なのではない。そうではなく、社会の安定性・固定性によって、予測可能になりすぎた未来を生きることへの嫌悪なのである。いわば「結果をすでに知っている人生」を生きることへの絶望である。そして、そこから逃れようするとき必ず何らかの暴力性を求めざるをえない。だからこそ赤木が求めるのは、「格差是正」ではなく「暴力的カタストロフ」なのである。